八月の蛍、あの夏の歌
6
————翌日のホームルーム。
宮沢先生は、まるで昨日の僕たちの話を聞いていたかのように、お祭りの話題を出した。
「今年は皆さんご存知。合唱ですね」
先生は僕を見て「朝丘君には何の事だかさっぱりよね」と笑って、一から説明してくれた。もうユキから教えてもらったから別に良かったんだけど、音楽教師である宮沢先生は今回かなり気合いが入っているみたいで、ぼーっと聞いている僕に丁寧にお祭りの感動や、合唱への周りの期待を熱弁した。
「————と言う事で、明日の音楽の授業はパート分けをする為に一人ずつ歌のテストをします」
先生による衝撃の発表にクラス中、特に男子から大ブーイングが起こった。
そりゃそうだ。先生ってみんなの前で歌う恥ずかしさを知らないのだろうか。音楽の授業では度々行われているけど、ホント止めてくれっていつも思う。
みんなの視線が自分に集中する中、静まり返った教室にピアノの音と、別に上手くもない自分の歌声が響き渡る……想像するだけでも恐ろしい。
「先生!」
文句。と言うより、もはや騒いでいるだけにしか見えない教室でユキが手を挙げる。色んな声が飛び交う中でも先生はしっかりとその声を聞き分けてユキを指した。
「はい。どうぞ」
「伴奏はどうやって決めるんですか?」
ユキの言葉に、教室が急に静まり返る。ピンと空気が張りつめた気がした。
確かに伴奏は大役だ。どうやら先生が弾くんじゃないらしい。でもこういうのは大概、ピアノを習っている女子の誰かがやるものだから、僕は関係ない————。
「そうね。ピアノは朝丘君にお願いしようと思って」
「……ん?」
僕は机に頬杖をついたまま固まった。と言うよりむしろ教室の時が止まった。そんな一瞬の静寂も意に介さず先生は満面の笑顔で口を滑らせる。
「お父さんから聞いたわよー? ピアノ結構得意みたいじゃない。助かったわぁ。この学年、君以外にピアノ弾ける子いないのよ」
僕は口を間抜けに開けたままゆっくりと教室を見回す。目を真ん丸に見開いたみんなと目が合う。
……マジ?
「ホタル……ピアノ弾けるの?」
僕と顔を見合わせたカズがいつもなら考えられないくらい普通の音量で喋る。僕はまだ頬杖をついたまま、小さく頷いた。
「う……うん」
どこからとも無く拍手が鳴りだした。それは一つ一つ増えてやがてクラス中に鳴り響く拍手になった。僕はその拍手の渦に飲み込まれながら、お祭りでピアノを弾いている自分を想像して絶望した。
「————しっかしホタルがピアノ弾けるなんてビックリだな! もしかして家にピアノあんの?」
「うん。まぁね」
学校からの帰り道、友達の特技発覚に喜ぶカズとは対照的に僕はえらく落ち込んでいた。
「じゃあさ。今度ホタルの家でピアノ聞かせてくれよ!」
「嫌だよ。もう一年以上も弾いてないんだから」
深く溜め息をついても夏の息は白くならない。自分の吐いた息を探すように下を向くとカズは僕の背中を思いっきり叩いてきた。
「まぁ、そんなに緊張すんなよ。良かったな。これで明日の歌のテストはパスだぜ?」
カズの気の利いた慰めも、今の僕にはてんで慰めにならない。これだったらまだ歌のテストの方がマシだ。僕は大役への緊張と言うより、大舞台でピアノを弾く恥ずかしさや面倒くささ、何よりピアノを弾くと言う行為がたまらなく嫌だった。
でも、今さらそんな事を言ったってどうしようもない。
もう決まってしまったのだから、やるしかないのだ。
僕は家に着いたら早速、ユーヘイに愚痴ろうと決めた。
『あ、もしもしユーヘイ? 実は面倒くさい事になってさ。なんか村のお祭りでピアノを弾かなきゃならなくなったんだ……』
『え? ケイが?』
『うん。まいったよホント……』
『大丈夫なのか?』
『いや、もう決まっちゃったし。やるしかないって感じでさ』
『そっかー。でもちょっとそれ見たいかも』
『いや絶対にやめて』
『ははは! わかってるよ! でも、頑張ってな』
『うん』
『そんな暗くなんなよ! まぁ何かあったらいつでも愚痴ってこいよ! あっそういえばこの前、健太郎がフラれたぜ!』
『え! 誰に告白したの?』
『佐々木! 実はずっと好きだったんだって! あいつ内緒にしてやがった!』
『健太郎の奴。僕にも好きな人いないって言ってたくせに。ざまーみろ!』
『みんなお前と同じ事言って笑ってるよ! 今度、残念会が開かれる!』
『ははは! しょーもな!』
『お! 少しは元気出たみたいだな! また面白ニュースあったらすぐ教えるからさ! ケイ、ピアノ頑張ってな!』
『うん……ありがとう。ちょっと気が楽になったわ。また連絡する』
『はいよー! じゃあな!』
携帯の電源ボタンを押して、畳に寝転がる。真っ暗な部屋にも目が慣れていて、天井の木目まで分かってしまいそうだった。
ユーヘイにはいつも助けられてばっかりだ。一年半前もそう、僕はユーヘイが居なければずっと塞ぎ込んでいたままだったと思う。僕はどんなに落ち込んでいても、ユーヘイの話には何故だか笑ってしまって、その度に少しだけ心が軽くなった。またすぐに元に戻っちゃうんだけど、ユーヘイはいつだって何度だって僕を笑わせてくれた。
深呼吸して起き上がり、携帯を机の充電器に戻して部屋を出た。父さんは台所に居るのか、居間の電気も消えていた。
縁側に座って、夜空を眺める。こっちの夜は暗い。でもおかげで星はよく見える。こっちにユーヘイはいない。おかげで、何が見えるのだろう。僕にはそれがまだ見つけられなかった。
しばらく田舎の夜を眺めていた僕は、おもむろに部屋に戻り、引っ越して来た時からずっと端に佇んでいたアップライトピアノの鍵盤蓋を開けた。
朱色の布を取って、黒鍵を一つ押し込む。
ピンと高い音が鳴って、空気に溶け込んでいく。その音は昔と何も変わらない。
「最後に弾いたの……何だっけ」
椅子に座り、高さを調節して鍵盤に手を置く。無意識に動きだす手。鳴り始めた音楽は、小学校六年生の時に弾いた合唱曲だった。
そうだ。そう言えば僕は合唱の伴奏やった事あるんだった。
すっかり忘れていた事実を思い出し、同時に溢れて来る思い出に思わず僕は演奏を止めてしまう。
「……どうしたんだ急に」
「え?」
声に振り向くと、父さんが襖を開けて立っていた。
「い、いや、夏のお祭りで……その、合唱の伴奏をやる事になって……」
僕は鍵盤に布を被せて慌てて蓋を閉じた。別に悪い事していたわけじゃないのに、変に心臓がドクドクと波打った。
「そうか。それは凄いな。楽しみだ。ここなら、いつどれだけ弾いても何も言われる心配ないから、気にせず好きなだけ練習して良いからな」
父さんは少し嬉しそうな声でそう言うと、襖を閉じた。
残念ながら好きなだけ練習する気はまるでないのだけれど、それでも久しぶりに弾いたピアノが少し心地良かったのは確かだった。
宮沢先生は、まるで昨日の僕たちの話を聞いていたかのように、お祭りの話題を出した。
「今年は皆さんご存知。合唱ですね」
先生は僕を見て「朝丘君には何の事だかさっぱりよね」と笑って、一から説明してくれた。もうユキから教えてもらったから別に良かったんだけど、音楽教師である宮沢先生は今回かなり気合いが入っているみたいで、ぼーっと聞いている僕に丁寧にお祭りの感動や、合唱への周りの期待を熱弁した。
「————と言う事で、明日の音楽の授業はパート分けをする為に一人ずつ歌のテストをします」
先生による衝撃の発表にクラス中、特に男子から大ブーイングが起こった。
そりゃそうだ。先生ってみんなの前で歌う恥ずかしさを知らないのだろうか。音楽の授業では度々行われているけど、ホント止めてくれっていつも思う。
みんなの視線が自分に集中する中、静まり返った教室にピアノの音と、別に上手くもない自分の歌声が響き渡る……想像するだけでも恐ろしい。
「先生!」
文句。と言うより、もはや騒いでいるだけにしか見えない教室でユキが手を挙げる。色んな声が飛び交う中でも先生はしっかりとその声を聞き分けてユキを指した。
「はい。どうぞ」
「伴奏はどうやって決めるんですか?」
ユキの言葉に、教室が急に静まり返る。ピンと空気が張りつめた気がした。
確かに伴奏は大役だ。どうやら先生が弾くんじゃないらしい。でもこういうのは大概、ピアノを習っている女子の誰かがやるものだから、僕は関係ない————。
「そうね。ピアノは朝丘君にお願いしようと思って」
「……ん?」
僕は机に頬杖をついたまま固まった。と言うよりむしろ教室の時が止まった。そんな一瞬の静寂も意に介さず先生は満面の笑顔で口を滑らせる。
「お父さんから聞いたわよー? ピアノ結構得意みたいじゃない。助かったわぁ。この学年、君以外にピアノ弾ける子いないのよ」
僕は口を間抜けに開けたままゆっくりと教室を見回す。目を真ん丸に見開いたみんなと目が合う。
……マジ?
「ホタル……ピアノ弾けるの?」
僕と顔を見合わせたカズがいつもなら考えられないくらい普通の音量で喋る。僕はまだ頬杖をついたまま、小さく頷いた。
「う……うん」
どこからとも無く拍手が鳴りだした。それは一つ一つ増えてやがてクラス中に鳴り響く拍手になった。僕はその拍手の渦に飲み込まれながら、お祭りでピアノを弾いている自分を想像して絶望した。
「————しっかしホタルがピアノ弾けるなんてビックリだな! もしかして家にピアノあんの?」
「うん。まぁね」
学校からの帰り道、友達の特技発覚に喜ぶカズとは対照的に僕はえらく落ち込んでいた。
「じゃあさ。今度ホタルの家でピアノ聞かせてくれよ!」
「嫌だよ。もう一年以上も弾いてないんだから」
深く溜め息をついても夏の息は白くならない。自分の吐いた息を探すように下を向くとカズは僕の背中を思いっきり叩いてきた。
「まぁ、そんなに緊張すんなよ。良かったな。これで明日の歌のテストはパスだぜ?」
カズの気の利いた慰めも、今の僕にはてんで慰めにならない。これだったらまだ歌のテストの方がマシだ。僕は大役への緊張と言うより、大舞台でピアノを弾く恥ずかしさや面倒くささ、何よりピアノを弾くと言う行為がたまらなく嫌だった。
でも、今さらそんな事を言ったってどうしようもない。
もう決まってしまったのだから、やるしかないのだ。
僕は家に着いたら早速、ユーヘイに愚痴ろうと決めた。
『あ、もしもしユーヘイ? 実は面倒くさい事になってさ。なんか村のお祭りでピアノを弾かなきゃならなくなったんだ……』
『え? ケイが?』
『うん。まいったよホント……』
『大丈夫なのか?』
『いや、もう決まっちゃったし。やるしかないって感じでさ』
『そっかー。でもちょっとそれ見たいかも』
『いや絶対にやめて』
『ははは! わかってるよ! でも、頑張ってな』
『うん』
『そんな暗くなんなよ! まぁ何かあったらいつでも愚痴ってこいよ! あっそういえばこの前、健太郎がフラれたぜ!』
『え! 誰に告白したの?』
『佐々木! 実はずっと好きだったんだって! あいつ内緒にしてやがった!』
『健太郎の奴。僕にも好きな人いないって言ってたくせに。ざまーみろ!』
『みんなお前と同じ事言って笑ってるよ! 今度、残念会が開かれる!』
『ははは! しょーもな!』
『お! 少しは元気出たみたいだな! また面白ニュースあったらすぐ教えるからさ! ケイ、ピアノ頑張ってな!』
『うん……ありがとう。ちょっと気が楽になったわ。また連絡する』
『はいよー! じゃあな!』
携帯の電源ボタンを押して、畳に寝転がる。真っ暗な部屋にも目が慣れていて、天井の木目まで分かってしまいそうだった。
ユーヘイにはいつも助けられてばっかりだ。一年半前もそう、僕はユーヘイが居なければずっと塞ぎ込んでいたままだったと思う。僕はどんなに落ち込んでいても、ユーヘイの話には何故だか笑ってしまって、その度に少しだけ心が軽くなった。またすぐに元に戻っちゃうんだけど、ユーヘイはいつだって何度だって僕を笑わせてくれた。
深呼吸して起き上がり、携帯を机の充電器に戻して部屋を出た。父さんは台所に居るのか、居間の電気も消えていた。
縁側に座って、夜空を眺める。こっちの夜は暗い。でもおかげで星はよく見える。こっちにユーヘイはいない。おかげで、何が見えるのだろう。僕にはそれがまだ見つけられなかった。
しばらく田舎の夜を眺めていた僕は、おもむろに部屋に戻り、引っ越して来た時からずっと端に佇んでいたアップライトピアノの鍵盤蓋を開けた。
朱色の布を取って、黒鍵を一つ押し込む。
ピンと高い音が鳴って、空気に溶け込んでいく。その音は昔と何も変わらない。
「最後に弾いたの……何だっけ」
椅子に座り、高さを調節して鍵盤に手を置く。無意識に動きだす手。鳴り始めた音楽は、小学校六年生の時に弾いた合唱曲だった。
そうだ。そう言えば僕は合唱の伴奏やった事あるんだった。
すっかり忘れていた事実を思い出し、同時に溢れて来る思い出に思わず僕は演奏を止めてしまう。
「……どうしたんだ急に」
「え?」
声に振り向くと、父さんが襖を開けて立っていた。
「い、いや、夏のお祭りで……その、合唱の伴奏をやる事になって……」
僕は鍵盤に布を被せて慌てて蓋を閉じた。別に悪い事していたわけじゃないのに、変に心臓がドクドクと波打った。
「そうか。それは凄いな。楽しみだ。ここなら、いつどれだけ弾いても何も言われる心配ないから、気にせず好きなだけ練習して良いからな」
父さんは少し嬉しそうな声でそう言うと、襖を閉じた。
残念ながら好きなだけ練習する気はまるでないのだけれど、それでも久しぶりに弾いたピアノが少し心地良かったのは確かだった。