私と彼の溺愛練習帳
「いいんです。警察なんて呼んで時間とられたくないんで」
「じゃあせめてきちんとお詫びをさせて」
 彼は手を動かしながら言った。

「髪、なんとかします。手を離してください」
「わかった」
 閃理の手が離れると、雪音はポケットからハサミをだした。
 そのままざくざくと髪を切る。通りすがりに見かけた女性が軽く悲鳴を上げ、逃げるように歩き去った。

「なにしてるの!?」
「これでもういいですね」
 手の中の髪がはらりと落ちた。

 閃理は唖然として雪音を見ている。その手にドローンを押し付けると、彼は反射的に受け取った。
「では、失礼します」
 雪音は彼を置いて背を向けた。
 


 ざんばら髪で電車に乗り、人々の白い視線を受けた。
 気にしたら負けだ。
 事情を知らない人たちなんか、こっちだって知ったことではない。

 強気にそう思って見るものの、やはりみじめな気持ちはわいてくる。
 車窓に映る自分を見てから、不揃いの毛先を摘まむ。

『きれいな髪ね』
 母の声が蘇る。
 かつて、陽の当たるリビングで、幼い自分の髪をなでながら母が言った。
『あなたはロングヘアが似合うわ』
 その温かな思い出があるから、ずっと長髪にしていた。

 今や髪は鎖骨のあたりまでで、毛先はぎざぎざだ。
 なんとか気力を保って家に帰る。
 明日は休みだ。髪を切りに行こう。
 今までが長すぎたのだ。
 だが、失恋して髪を切ったのだと思われたらどうしよう。
 職場の人は惣太と自分が付き合ったのを知っている。

「ただいま」
 返事をするものなどいないはずだが、小さくそう言って玄関を入る。

 雪音を出迎えるのはいつも辛苦だけ。
 やあおかえり。待っていたよ。自分だけは常にあなたとともにいてあげるからね。一生の友達だよ。もう家族と言ってもいいよね。
 そう言わんばかりに、それは愛鈴咲の形をして現れた。

「遅いわよ!」
 従妹の愛鈴咲が待ち構えていて、リビングから玄関に出て来た。
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