私と彼の溺愛練習帳
 ワイパーは飽きることなく雨粒を拭い続けている。その規則的な音は沈黙を埋めるには役不足で、雪音は気まずく自分の手を見た。

「……ちょっとだけ、言ってないことがある」
 閃理の声は沈んでいた。
「そのことでからかわれたりしてきたから、言いたくなかった。雪音さんの態度が変わるのも怖かった。だから、もう少し待って」

 閃理を見ると、彼は無表情でまっすぐに前を見つめていた。
「それだけ?」
「それだけって、なに?」
 怪訝に、閃理は言う。
 貴族だからからかわれたのだろうか。婚約者がいてからかわれたのだろうか。

「お願い。僕だけを見て」
 彼は言う。
「血筋も家柄も関係ない、閃理だけを見て」
 家柄、と雪音は心の中で繰り返す。

 ではやはり、閃理は貴族なのだろう。ということは、婚約者も本当かもしれない。
 ユベールという名前も、ジュスティンヌから聞くまで知らなかった。果たして国籍はどっちになっているのか。それすら正確に知らない。言わなかったのは、いずれ別れるのだから、そんなことを教える必要はなかったのか。

 だが、彼は自分に結婚を匂わせたこともあった。婚約者がいるなら、そんなことをするだろうか。
 だからこそ騙せると思ったのか。
 そもそも彼は騙そうとしていたのか。

 彼が言ってくれないと真実はわからない。
 いや、彼が言ったところで真実なのかはわからない。
 もう少し待って、僕だけを見て、と彼は言った。

 どちらを信じるのか。彼か、彼女か。
 彼を信じたい。嘘を言うようには思えない。
 だが、慰謝料をちらつかせるということは、あの女性にもその根拠があるのだろう。
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