私と彼の溺愛練習帳
 じゃあ抱いてください。
 雪音は確かにそう言った。
 なにがどうして「じゃあ」なのか、さっぱり閃理にはわからない。

 閃理は雪音を見る。が、抱き着かれた状態では彼女の頭が見えるばかりで表情はわからない。
 雪音の頭を撫で、頬を寄せた。艶やかな黒髪がなめらかで、リンスの甘い香りがした。

「どうしてそう思うの?」
 閃理が聞くと、虚をつかれたように雪音は黙った。
 ややあって、迷うように言う。
「……私、あなたに会えて幸せなの。だから、少しでもお礼になるなら」
 雪音の手に力がこもった。精一杯の気持ちなのだろう。それはわかった。
 だが。

 閃理はゆっくりと彼女を引きはがした。すがるような彼女の目に、胸が鷲づかみにされたようにぎゅっと痛んだ。だが、言葉の通りなら願いをかなえるわけにはいかない。

「お礼なら、明日もごはん作って」
 なるべく優しい口調になるように気を付けた。
「お礼に、とかさ。そういうの嫌いなんだよ」
 諭すように言った。お礼に体を差し出す。そんなのはおかしい。対等ではない。

「好きだから、ならいつでも歓迎だよ」
「もちろん、好きよ」
「でも、お礼なんでしょ」
 知らず、声が冷たくなってしまった。直後に閃理は後悔する。雪音の目に涙がたまっていた。

「ココア、淹れるよ」
 取り繕うように言った。が、雪音は首を振った。
「……もう遅いからいい。ごめんね」
 雪音はそう言って自室へ戻って行った。
 閃理は深いため息をついた。

***

 翌朝、目が覚めた雪音は閃理がいないことに気がついた。
 いつもと同じリビングダイニングなのに、急にがんらとして見えた。空気はまるで他人のようだ。
 彼の私室も仕事部屋も、ノックしても返事はなかった。勝手に開けたが、やはり無人だった。
 慌ててスマホを見る。なにもメッセージはなかった。
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