私と彼の溺愛練習帳
「どうして……」
 抱いてください、と言ったとき、雪音は自分のために抱いてほしいとは言えなかった。
 自分などに価値があるとは思えなかった。子供の頃から周囲に汚いと罵られ、叔母たちに生きる価値がないと蔑まれて来た。

 つい、価値があるのか、と聞いてしまった。
 ある、と言ってくれた。
 それで安心して告げることができた。

 どうして、と聞かれたのは予想外だった。いずれ来る苦悶の前に閃理との思い出が欲しかったなんて、言えるはずもない。

 だから、お礼に、と言ってしまった。
 だが、閃理の気に障ったようだった。
 そういうの嫌いなんだよ。
 閃理の声が蘇る。
 軽蔑された、と思った。
 もうこれで嫌われただろうか。
 雪音は深呼吸をした。

「それなら明日もごはん作ってなんて言わない。だから大丈夫」
 あえて声に出してつぶやいた。
「仕事で出掛けただけ。帰ってくる」
 彼は自分の隣が帰る場所だと言ってくれたのだから。
 雪音は義務のように朝食を食べた。いつもと同じトーストなのに、まったく味がしなかった。



 仕事は上の空で、店長の武村に怒鳴られた。心がしびれたように怒鳴り声は遠く聞こえた。ぼんやりしていたせいか、説教は長引いた。

「先輩、大丈夫ですか?」
 ようやく解放されたあと、美和にたずねられた。
「うん……」
「店長、クビになればいいのに」
「でもあの人にも生活があるから」

「甘すぎです。良くも悪くも因果応報があるべきですよ」
「良い因果応報かあ」
 そんなのあったっけ、と雪音は思う。

 ただ浮かぶのは閃理のふんわりと優しい笑顔。
 帰ったら、また頭を撫でてもらおう。
 それを心の頼りに、雪音は一日を乗り切った。
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