私と彼の溺愛練習帳



「ただいま」
 声をかけて、雪音は玄関に入る。
 返事はなかった。
 センサーが作動し、ライトが点灯する。
 空気が動く気配はなく、胸がざわついた。

「閃理さん、いる?」
 やはり答えはない。
 仕事部屋も私室も返事はなかった。スマホにもなんの連絡もない。

「きっと仕事。すぐ帰るつもりだから連絡がないだけよ」
 自分に言い聞かせ、シャワーを浴びる。
 一人で髪を乾かし、二人分の料理を作った。
 迷ってから、雪音はスマホでメッセージを送った。

 ごはん作ったよ。先に食べるね。
 送信して、食べ始める。食べる音が妙に響くのが嫌で、リビングのテレビをつけた。
 が、なにも頭に入ってこない。
 お笑いタレントがわざと転んで周囲の笑いを誘っていた。
 なにがおもしろいのか、さっぱりわからなかった。

 食べ終わっても返信はなかった。
 打ち合わせが長引いてるのよ。
 雪音はテレビを消して部屋に戻った。

 チェストの上の小さなアクセサリーケースを開ける。
 中にあるのは、雪の結晶のピアス。
 手に取ると、ひんやりと固い感触が伝わった。

 閃理でも間違えることはある。だったら連絡を忘れることもあるだろう。連絡したつもりで忘れていたなんてのもよくあることだ。

 帰ったときに僕がいなくても心配しないでね。
 彼はそう言っていた。
 帰って来るのよね、と聞いたら、もちろん、と答えてくれた。
 だから大丈夫。

 どれだけ自分を説得しても、不安は無限の泉のように湧いてくる。
 もうなにも考えたくない。
 ピアスをケースに戻し、ベッドにもぐりこんだ。
< 130 / 192 >

この作品をシェア

pagetop