私と彼の溺愛練習帳
 眠ってしまえば考えなくて済む。
 そう思うのに、まったく眠りは訪れなくて、頭にはぐるぐると閃理の姿がまわっていた。
 そういうの嫌いなんだよね。
 脳裏の閃理はなんども冷たくそう言った。


 
 ろくに眠れないまま、朝を迎えた。
 閃理は帰って来なかった。
 眠気のせいで仕事に集中できず、また武村に怒鳴られた。
 ふらふらになって店を出ると、いつかの通訳、ブリュノが待ち構えていた。

「お嬢様がお待ちです」
 逃げようとしたが、腕をつかまれた。
 抵抗する力もなく車にひっぱりこまれ、いつぞやのようにホテルの前で降ろされ、レストランの個室に連れて行かれる。

 ジュスティンヌが今日も美しく毅然と椅子に座っていた。
 彼女はフランス語でなにかを言ったが、ブリュノは訳さなかった。
 ろくでもないことを言ったんだろう。
 重く痛い頭で、ぼんやりと思う。
 椅子を勧められることもなく、雪音はその場に突っ立っていた。

「先日のお返事を聞かせていただきたい」
 男性が言う。
 雪音は眉をぎゅっと寄せた。
 ジュスティンヌは侮蔑の目を向け、なにかを言った。

「……あなたはかわいそうな生い立ちですね。かわいそうに酔ってて気味が悪い。だから友達もいないんでしょう。彼は捨て猫を見捨てられなかっただけ」
 ブリュノが訳した。

「なによ、かわいそうって」
 雪音は反論した。
 ジュスティンヌが憫笑(びんしょう)を見せ、またなにかを言う。
「両親に捨てられてかわいそうだ、と」
 ブリュノが言う。

「捨てられてない! 私はちゃんと両親に愛されてる!」
 友達がいないのはその通りだ。だが、両親には愛されて育った。決して捨てられたわけじゃない。父は他界したのだし、母は行方不明なだけだ。

 ジュスティンヌが冷笑を浮かべて席を立った。
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