私と彼の溺愛練習帳
 雪音の前に立つ。
 背の高い彼女が前に立つと、それだけで圧があった。
「彼はあなたが嫌で家を出ました。今は私のスイートにいます」
 初めて聞く彼女の流暢な日本語に、ぽかんとした。
 ジュスティンヌはスマホを取り出し、雪音に見せる。彼の無防備な寝顔と、微笑する彼女が映っていた。

「彼の背中のほくろの数を知っていますか?」
 とたん、血の気が引いた。素肌の背中なんて、そうそう見るものじゃない。
 風呂上りに彼が半裸でいるのは何度か見かけたが、まじまじと見たことはなかった。

 そういう問題ではない、と重い頭を動かす。
 つまりは、彼女は彼と深い仲だと言っているのだ。
 自分にはできない……ついにはできなかったことだ。

「あなたは彼にも捨てられたのです」
 ジュスティンヌは高らかに宣言する。
「早く出て行きなさい。かわいそうな猫と違って、一人で出ていけるでしょう?」
 雪音はがくりと膝をついた。
 その腕を、ブリュノはつかんだ。助け起こすためではなく、部屋から引っ張り出すために。
 


 雪音はまた駅前で車を下ろされた。
 あなたは彼にも捨てられたのです。
 ジュスティンヌの声が頭に響く。
 あんたは捨てられたのよ。
 久美子の声が蘇る。
 捨てられたのよ、あんた。
 愛鈴咲が嘲笑う。

 嘘だ。
 雪音は必死に歩いた。
 彼は帰ってくるって言った。
 絶対に帰ってくる。

 雪音は慎重に歩いた。氷の上を歩くようにゆっくりと。間違えてなにかを踏み抜いてしまわないように。
 頭が痛いのを気にしている余裕はなくなった。

 帰ってくる。帰ってきている。
 ただそれだけを心に唱えた。

 玄関の鍵を取り出す。小刻みに震える手を押さえて鍵をあけ、玄関を開けた。
 センサーが反応して明かりが点いた。
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