私と彼の溺愛練習帳
「ただいま」
 声をかけるが、返事はない。
 たまにあることだ。仕事に集中している彼は雪音が帰っても気がつかないことがある。
 スマホを取り出す。相変わらず沈黙している。
 ゆっくり靴を脱ぎ、そっと部屋に入った。
 リビングダイニングは無人だった。浴室もトイレも、彼の私室も、雪音の部屋も。

 最後に、彼の仕事部屋をノックした。返事はなかった。
 そうっと、ゆっくりと扉を開ける。
 部屋は真っ暗だった。廊下から明かりが差し込むその部屋の、どこにも閃理はいない。
 雪音はずるずると床に座り込んだ。

 ただいまと言い、おかえりと迎えられる。
 ただそれだけなのに、それはこんなにも難しいことだったのだ。

 母が行方不明になってからおかえりと迎えられることなどなかったのに、すっかり忘れてしまっていた。
 ジュスティンヌが現れるまで、閃理と一緒にいられると安穏と信じ込み、まんまとぬるま湯につかっていた。

 いつも、幸福は辛苦の前兆だった。
 抱いて、と閃理に言ったときに覚悟していたつもりだった。
 なのに、予想より早くそいつは現れた。

 雪音にずっとつきまとってきた辛苦……そいつが形をなしていたら、にやにやと笑っているだろう。口直しの時間は終わりだよ。ここからが本番だ。

 閃理のかわりに出迎えたのは、昔馴染みのそいつだ。
 おかえり、こちらの世界へ。おかえりなさい、待っていたよ。あなたは捨てられたんだ。自分だけがあなたの友達で家族。ずっと一生そばにいるよ。

「捨てられた……」
 思わず呟きが漏れた。無人の空間に、やけに声が響いて聞こえる。
 違う。
 のろのろと、雪音は立ち上がる。
 捨てられてない。
 まだ(・・)、捨てられてない。

 にやにやと自分を見ているだろうそれに向かって、心で言う。
 あなたは友達でも家族でもない。私が帰るのはあなたのところじゃない。

 雪音は緩慢(かんまん)に自室に向かう。
 大きめのバッグに当座の荷物を詰めると、そのまま玄関を出た。
 焦点の合わない目で、のろのろと歩いて街へ出た。
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