私と彼の溺愛練習帳
「雪音さん?」
 リビングを見て、彼女の部屋の扉をノックする。返事はなかった。
 はっとして玄関に戻る。靴がない。
「仕事……?」
 早番にしても、出ていくのが早過ぎる。早番のときは九時くらいに家を出ていた。まだ八時だ。

 スマホを取り出す。着信もメッセージもない。
 嫌な予感がした。
「きっと、仕事だ」
 閃理はぎゅっとスマホを握りしめた。



 雪音の働く家電ショップに、閃理は開店と同時に入店した。
 あふれる商品もセールを主張するポスターも、なにもかも眼中になかった。
 店内を走り、エスカレーターを大股で駆け上がり、二階へ行く。
 洗濯機売り場を見回し、見覚えのある顔を見つけた。

「先輩の彼氏さん!」
 ぱあっと顔を輝かせ、その人物が寄って来た。
「えっと……」
「平田美和です。先輩の後輩です。って日本語おかしいですね」
 えへへ、と美和は笑った。

「雪音さんは?」
 聞かれて、美和は首をかしげた。
「聞いてないんですか? 仕事辞めちゃったんですよ」
「え?」
「あれ?」
 美和は驚き、次に不安を浮かべた。

「先輩から手紙を預かってます。今日、出勤してすぐに渡されて、あなたが来たら渡してくれって。おかしなこと言うな、と思ったんですけど」

 美和はポケットから封筒を取り出す。
 閃理は奪うようにして受け取り、開封した。

 今までありがとう。出ていきます。

 ただそれだけが、書かれていた。
 閃理はぐしゃっとにぎりつぶした。
「なんでそうなるんだよ! 意味わかんない!」
 頭を抱え、がくり、と膝をついた。

「えっと……彼氏さん?」
 戸惑うように美和が声をかける。
「S'il te plaît, ne me laisse pas」
 聞きなれない言葉に、美和は目をしばたかせた。

 お願い、置いて行かないで。
 フランス語で、閃理はそうつぶやいたのだ。

「大丈夫ですか?」
 美和には問いかけるしかできなかった。
 閃理は答えることなく、そこにうずくまっていた。
< 137 / 192 >

この作品をシェア

pagetop