私と彼の溺愛練習帳
「でも……」
「罪滅ぼしにはならないだろうけど、少しは役に立たせて」
 雪音は彼を見た。惣太はまた困ったように微笑する。

 以前のままだ、と思った。最初に会ったときも彼はこのように笑っていた。
 優しくて、理不尽に怒られても言い返せない。耐えている姿が自分に重なって、思わず声をかけてしまったあのとき。

「……お願いします」
 雪音が言うと、惣太はほっと息をついた。スマホを取り出し、面接の段取りをつけてくれる。
 どうして彼を信じ切れなかったんだろう。信じて身を任せていれば、もっと深く愛し合い、将来を誓う仲になっていただろうか。
 思って、ため息をつく。そんなことを考えても仕方がない。もう別れたのだから。

「……君を幸せにできなくてごめん」
 彼の言葉が心に染みて、雪音は目をぎゅっと閉じた。



 その日のうちに面接に行った。
 惣太の推薦もあってか、すぐに合格して寮に入らせてもらえた。
 さっそく翌日から働いた。
 工場は慣れないことばかりで大変だった。手は痛くなるし、真っ黒に汚れる。
 だが、体を動かしている爽快感があった。

 毎日へとへとになって、考える余地もなく眠った。
 工場の人たちから、まじめにがんばってくれてありがたい、と言われた。
 うれしかった。ここにいていいよ、と言われたように思えた。

 仕事を終えて帰る途中で夜空を見上げる。
 半分ほどの月があった。欠ける途中か満ちる途中か、雪音にはわからない。
 大きな幸せもないが、大きな不幸もない。
 他人に心を壊されそうになったとき、雪音は自分から壊しに行った。他人に壊されるくらいならいっそ。
 そうして、踏み抜かれた氷は元には戻らない。

 氷の中に飛び込んで対岸に向かう勇気はなくて、引き返した。
 閃理には二度と会えないだろう。それでもいい。それならもう傷付かずに済む。
 もう、これ以上は。
 雪音は祈った。

 このまま、なにごともなく過ごさせて。欠けたまま満ちないのだとしても。私は代償を先に払ったでしょう? 父も母もいなくなって家もなくなって、さらには閃理さんまで失って。

 月は静寂を投げかけ、なにも答えない。
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