私と彼の溺愛練習帳
 母は貴族の令嬢だったせいか家事が下手で、家政婦と一緒に閃理が家事をした。
「閃理はなんでも上手ね」
 いつも母はふんわりと笑って閃理を抱きしめてくれた。
「私のかわいい子。大好きよ」

 温かい手を失ったのは、高校に入ってすぐだった。
 授業中に入って来た教師から、すぐに帰る支度をするように言われた。顔と名前しか知らない副担任が、車で閃理を病院へ送った。

 病室に行くと、医者が心臓マッサージをしていた。
 閃理の到着を知ると、彼は手を止め、臨終を告げた。

 心臓マッサージは母を引き戻すためではなかった。閃理が間に合うように、ただそのために続けられていたのだ。医者の額には大粒の汗がいくつも浮かび、呼吸は荒かった。それ以上を求めることは、閃理にはできなかった。

 閃理はその場に膝をついた。涙は出なかった。受け入れがたい現実に、ただ呆然とした。
 遅くなったけど入学祝いにケーキを作りたいとおっしゃって。材料を買いに行かれたんです。
 家政婦は泣きながら言った。

 葬式が終わると、父は家にあった写真をすべて捨てた。
 閃理は怒って抗議したが、父は無表情だった。
 一枚だけ、閃理が持っていた家族写真だけは手元に残った。

 マンションは解約され、閃理は新しいマンションに移された。家具もほとんどなくて寒々しい部屋だった。パソコンのハードディスクがいくつも置かれていた。その中には母の写真も母が好きだった写真もデータとして残っている。だから父は写真を捨てても平気だったのだろう。

 だが、捨てられた事実は心に深く傷として残った。いつでも印刷できるのに、閃理はプリントアウトできなかった。

 父は閃理を置いて行ってしまった。
 フランスの祖父母からフランスに戻らないかと打診があった。
 ジュスティンヌからも、フランスに帰るようにと催促するメールが来た。
 フランスには帰らない。
 閃理は両方に言い切った。

 母の愛した国を離れたくなかった。すでに自分の愛する国になっていた。
 家政婦の助けを借り、なんとか生活した。生活費は父が送ってくれた。
 父はたまに、写真に短い文章を添えてメールを送って来た。
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