私と彼の溺愛練習帳
「どち……ま?」
 どちらさま?
 声はかすれていて、聞き取りづらかった。長く声帯を動かしていなかったせいだろう。
「私よ、雪音!」
 雪音は母の手を探し、布団に手を伸ばした。
 母は応えるように布団から手を出した。その手を握る。思った以上に細かった。

「むす……わ」
 娘と同じ名前だわ。
「本人よ」
「せい……すぎ……」
 成長期にしては成長しすぎね。
 母は笑うように目を細めた。

「まさか」
 ナースは驚いた。
 次に、ばたばたと部屋を出て行った。

「お母さん、おかえりなさい」
 二十一年ぶりに、やっとその言葉を言えた。雪音の目から光る粒が零れた。
 母はぼんやりとそれを見つめていた。



 呼ばれた医師は早足で現れ、目覚めたばかりの女性に向かった。基本的なチェックをしてから、彼女にきく。
「質問しても大丈夫ですか?」
 女性はうなずく。

「お名前は」
「こは、ぎ、ま、ちこ」
「年齢は」
「さん、じゅう、よ、ん……」
 母が失踪した当時の年齢だった。現在は55歳のはずだった。
 生年月日は、血液型は、家族の名前は、住所は。
 彼女の答えは、空白の21年を除いて雪音の記憶と合致していた。

「あなたは事故に遭って病院に運ばれたのですよ」
「じ、こ」
 ぼんやりと真知子は言う。
「慌てなくていいですよ。ゆっくり思い出しましょう」
 医者はそう言って、診察を終えた。部屋を出て行くとき、小さくガッツポーズをした。
 雪音は黙ってその背に頭を下げた。
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