私と彼の溺愛練習帳



 雪音は翌日の日曜日も病室に行った。
 入院に必要だと言われたものを買って持ち込んだ。
 これまでは胃ろうで栄養を取っていて、まだ固形物は食べられないという。嚥下機能を確認して、徐々に機能回復を目指すと説明された。

 植物状態で二十一年も生きていたことが奇跡なのだと教えられた。
 なおかつ、意識が正常で後遺症もなさそうだという。それがどれだけ奇跡的なのか、興奮を抑えきれない医者からこんこんと語られた。何回も何回も奇跡と言われた。
 雪音はあきらめずに看病をしてくれた医師と看護師に感謝した。

 病院から連絡をもらった八王子の警察も来ていて、彼らから話を聞いた。
 総合すると、真知子は営業先の八王子でひき逃げに遭った。たちが悪いのは、犯人が真知子のカバンを持ち去ったことだ。驚きと動揺で、とっさに身元をかくそうとしたのかもしれない、と言われた。理由はどうあれ物品を奪ったことで、当初、警察は強盗事件として捜査した。

 犯人は捕まっていない。
 公訴時効が成立していてね、と警官は申し訳なさそうに言った。つまり、犯人が公に裁かれることはもうないのだ。捜査も終了している。

 それでもいい、と雪音は思った。
 母は帰らなかったのではない。帰れなかったのだ。
 母は自分を捨てていない。
 それがわかっただけでも幸せなのに、母はこうして生きてくれている。二十一年、がんばって待っていてくれた。

「あれから二十一年もたっていたなんて」
 母はかすれた声でさみしそうに零した。
「雪音がかわいくなっていくところを見られなかったのね」
「そう言ってくれるだけでうれしいよ」

「大学へは行ったの?」
「行ってない。高卒で働いてる」
「ごめんね、私がいなかったせいね」
「私が働きたかったの」

「久美子にもきっと迷惑をかけたわね」
「そんなことは気にしないで。今は元気になるのが一番の仕事よ」
 まさか実の妹が家を乗っ取ったなどとは言えなかった。
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