私と彼の溺愛練習帳
 連れて来られたホテルの一室で、雪音は居心地悪く周囲を見る。
 広い部屋は凍える夜から切り離されたように暖かだった。

 間接照明がふわりと光を広げている。白い壁はやわらかく黄みがかり、細かい模様の入った絨毯は灰色がかったベージュだった。
 ソファはそれよりも明るいベージュだった。ふっくらしたクッションが置かれ、楕円のテーブルは深いオークルだ。調度品は同じくオークルで統一されている。
 寝室は隣にあるようで、ここからは見えなかった。

 きちんと整えられた部屋はどこか他人行儀だ。
 思ってから自嘲の笑みをこぼした。
 他人なのだから当たり前だ。そんなことを改めて思うなんて。

 ふと見ると、彼がテーブルに鍵を置いていた。アンティークのような古臭い形をしていた。が、渡される前にホテリエが機械にさしこんでなにかをしていたから、中身は最新のものなのかもしれない。エレベーターにのるときにも鍵をかざしていた。

「名前、まだ聞いてなかった」
 彼が言う。
「こはぎゆきね」
「どんな字を書くの?」
「小さな萩に、雪の音」
「雪音さん。ロマンチックな名前だね」
 彼は微笑した。どこかアンニュイさを感じた。

 彼は冬の夜のように繊細な姿をしている。雪の結晶だとて彼には敵わないだろう。髪は月の光のようにやわらかそうで、ゆるくウェーブして額にかかっている。猫のようなヘーゼルの瞳がいたずらっぽく微笑んで自分を見返した。
 不思議な瞳だ、と雪音は見つめた。グリーンとアンバーが混在しているように見える。

 なぜ、と雪音は思う。
 なぜ彼は自分を受け入れようとするのだろう。
 ただ欲望のはけ口なのか。だが、彼なら自分など選ばなくてもいくらでもきれいな女性が寄ってきそうだ。

 ならば、なぜ。
 彼を見つめる。
< 16 / 192 >

この作品をシェア

pagetop