私と彼の溺愛練習帳
 ホテルの部屋はいつでも他人のようだ。
 お客様、どうぞおくつろぎください。

 そういう顔をしながら、どこかよそよそしい。きちんと掃除されて換気されて、だからこそ自分がただの客であることを自覚させられる。親しく歓迎される仲ではない。あくまで距離をとって接せられる存在。
 ただのホテルであってもそう思うのに、ましてやこんな高級なホテルなんて。

 小萩雪音(こはぎゆきね)は居心地悪く目の前の彼を見た。
 三十一歳の自分よりかなり若く見えた。二十代半ばだろう。

 一言で言って、美しい。
 薄い茶色の髪はやわらかそうだ。少しクセがあるようで、ふんわりとウェーブして彼を彩っていた。ヘーゼルの瞳が宝石のようだ。彼は細身で全体的に色素が薄く、ギリシャ神話に出て来るナルシスはきっと彼のようだろうと思わせられた。カジュアルな服装なのに、どこか品がある。

 自分とは大違いだ、と悲しくなる。
 真っ黒の髪は重々しく、切ったばかりだというのに痛みが目立つ。貧相な体を包む服は洗いざらして、どこかくたびれていた。
 彼のことは名前しか知らないが、見た目だけで吊り合わない相手だとわかる。
 なのに、自分から「抱いて」と言ってしまった。

「おいで。僕が溺愛してあげるから」
 彼は優しく手を差し伸べる。
 笑顔もまた美しかった。
 雪音はおずおずと手を伸ばした。
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