私と彼の溺愛練習帳
 なぜ彼は恋人と別れた直後だったとわかったのだろう。
 あのとき泣いていたからか。それで察したのだろうか。

「……君が幸せなら良かった」
 惣太はそう言って踵を返した。
「どこ行くのよ!」
 愛鈴咲が慌ててついていく。
 雪音はほっと息をついて、ようやく気が付いた。
 周囲の客の目がすべて自分を見ている。

「離してください」
 慌てて雪音はもがいた。
 閃理は彼女の耳に口を寄せる。
「着拒を解除してくれたらね」
「わかりました、だから離れてください!」

「絶対だよ。電話に出ないとまた来るからね」
 耳たぶに口付けて、閃理は離れた。
「またね」
 彼は名残惜しそうにエスカレーターを上って行った。
 はあ、と息をついて顔を上げると、怒り顔の武村がいた。



 閃理が立ち去ったあと、雪音は武村にこっぴどく叱られた。しかも店内で。
「お客様に反論して怒らせた上に、男を連れ込んで騒ぎを起こしやがって! 俺の立場が悪くなったらどうする!」
「申し訳ありません」
 雪音は頭を下げた。連れ込んだわけじゃない。が、言ったところで通じないだろう。

 武村を連れて来た美和はおろおろと立ち尽くす。
 彼女はクレーマー対策に武村を呼んだのだろう。が、タイミングが悪かった。いや、武村ならクレーマーのことも雪音のせいにして怒ったかもしれない。とにかくなにもかもを人のせいにして怒る人だから。

 ぺこぺこ謝ってやりすごし、帰宅する。
 愛鈴咲がまたなにか言って来るだろうな、とは思った。

 だけど、あの人を見たときのぽかんとした顔はちょっと面白かった。
 くすっと笑って玄関を開ける。
 と、愛鈴咲が待ち構えていた。片手は不自然に背に回っていた。
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