私と彼の溺愛練習帳
「女性にそんなもの請求しないよ」
「じゃあなんで……」
「込み入った話があるみたいだから、先に帰るよ」
 声をかけ、機材を持って征武が屋上から去った。
「どうしたの? なにかあった?」
 聞かれて、雪音は首をふる。

「さっきの酔っ払い、一つだけ正しいこと言ってたんだよね」
 雪音は閃理の顔を見る。
「あなたみたいなきれいな人が寂しそうにしてたら、慰めるのが男の義務ってやつ」
 雪音はうつむいてぎゅっと目を閉じた。

「力になるよ。話してみて?」
「……家を」
 ぽつり、と雪音はこぼす。

「家をとられたの。どこへも行くところがないの」
「とられた?」
 驚いた閃理が聞き返す。

「もう嫌だ。なにもかも……全部、なくなった」
 それを言ってどうするというのか。
 雪音は思う。
 だけど、こぼれた言葉はもう拾えない。

「そう……」
 閃理に抱きしめられた。抵抗する気力もなく、彼の腕の中で棒立ちになる。
「だったら、うちに来て。一緒に住もう」
 雪音はけげんに彼を見た。

「あなたがほしいもの全部、僕があげる」
 いたずらっぽく、閃理は笑う。
 夜の風は冷たく二人を包み、通り過ぎた。
 空には真ん丸に満ちた月が白々と光を放っていた。
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