私と彼の溺愛練習帳
「お母さん、いつから?」
「十歳のとき。仕事に出勤して帰らなかった。いつものように家を出て、なのにずっと帰って来なくて」

「お父さんは?」
「私が幼稚園の頃に、とっくに天国。だから二人でがんばってたの。なのに」
 閃理は黙って続きを待った。

「はじめは知らない人に施設みたいなところに連れて行かれた。一週間後、叔母さんが迎えに来て家に帰れたの。面倒を見てあげるって言われて一緒に住むことになった。すぐに、家事をやらされるようになった」
 雪音はため息をついた。

「お母さんが戻るまで、少しの間のことだと思ってた。お母さんが帰る家なんだから、きれいにしておきたかった」
 あの日、自分は小学校に、母は仕事に行くために一緒に家を出た。

 行ってらっしゃい。
 行ってきます。
 それを最後に、母は姿を消した。以来、おかえりの言葉は聞こえない。

「従妹にもいじめられた。かっこ悪いよね、六歳も下にいじめられるって」
 雪音は自嘲の笑みを浮かべた。
 どんな、と聞こうとして閃理はやめた。話すためには記憶を辿らなくてはならない。つらい追体験をさせたくなかった。

「家の物はほとんど叔母さんに捨てられた。写真も形見もなにもかもなくなった。つらくて悲しくて泣いた。泣いてもどうにもならないんだって、そのときに学習した」
 雪音はそっとカップのふちをなぞった。

「一番こたえたのは、あんたは捨てられたんだ、母が男を作って出て行ったって言われたこと。そのときはまだ、大人は全部正しいんだって思ってたから」
 閃理は眉をひそめた。
 子供にそんな暴言を吐くなんて、もはや暴力だ。

「母に言われて、いいこと日記を続けてたの。いいことだけを書いた日記。それを今日、目の前で破られた。本当に、なにもかもなくなったって思った」
 つらかっただろうに、と閃理は彼女を見る。
 なのに、彼女は涙をこぼさない。心への負担が大きすぎたのか。

「いいことなんてない。私を愛する人なんてもういないのよ」
 雪音は弱々しく笑った。厭世(えんせい)的な、皮肉を秘めた笑いだった。
「そんなことないよ」
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