私と彼の溺愛練習帳
「近い!」
 雪音は体を離そうとした。が、彼は離すどころか抱きしめてくる。
「おかえり」
 ささやく言葉にまた戸惑った。ここは私の家ではないのに。

 改めて見るリビングは、広々としていた。薄いグレーのカーペットにダークグレーのソファ。卵色のやわらかなクッション。大きなテレビ。
 続くダイニングはおしゃれな照明が垂れていた。ランダムに重ねた鉄の棒の先に丸い電球がついている。テーブルセットの椅子はベンチだった。余分なものはなにも出ておらず、すっきりしていた。

「あなたの気が済むまでここにいて」
 彼はやわらかく笑った。
 月が優しく照らすようだ、と雪音は思う。
 太陽だと強過ぎる。星だと弱すぎる。
 満ちては欠ける月は、心の痛みを知っていて、つらいときには欠け、喜びには満ちるかのようだ。

 月の精霊のような彼に男らしさを感じられず、中性的というよりむしろ無性(むせい)のようだった。
「……おじゃまします」
 今さらながら、雪音は言った。
 彼は再びやわらかく笑った。



 仕事を終えた雪音は、あずけられた合鍵を見て、ため息をついた。
 余っているという部屋には簡易ベッドがあって、雪音はそこで一晩を過ごした。
 仕事は制服が職場のロッカーにあるからなんとかなる。
 彼がニットとデニムを貸してくれたが、なんとかぎりぎり入るほどで、彼の細さを思い知らされた。

 安い服と下着をいくつか買って閃理の家に行く。
 彼はどういうつもりなんだろう。
 今夜はお礼を言って出て行かなくては。

 鍵を返して、借りた服は……クリーニング代を払えばいいだろうか。
 彼の家はセキュリティーのしっかりした3LDKのマンションで、高そうだった。こんなところに一人暮らしなんて、いいところのお坊ちゃんなんだろうか。

 そう思って鍵をあけ、ドアを開ける。
 センサーが反応して明かりが点いた。
 広い玄関には、一足も靴がない。

 彼は出掛けているのだろうか。
 そう思ったときだった。
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