私と彼の溺愛練習帳
 ぱたぱたと足音が聞こえて、閃理が現れた。
「おかえり」
 満面の笑顔で彼は言った。

 瞬間、雪音は持っていた買い物袋を落とした。
「どうしたの?」
 驚いて閃理は言う。
 雪音はなにも言えなかった。

 おかえり、なんて出迎えられるのは何年ぶりだろう。
 母が出て行って以来だからきっと二十一年ぶりだ。
 胸になにかがあふれて、だけどそのなにかが、わからない。

「悲しいことがあった?」
 きかれて、雪音は首をふる。
「じゃあなんで泣いてるの?」

 雪音は頬に手をやった。
 いつの間にか涙があふれて、頬をぬらしていた。
 閃理はふんわりと優しく笑った。
「またココアを淹れるね」

「ありがとう。……ただいま」
「おかえり」
 彼はまたそう言ってくれた。
 うれしくて、雪音は目を細めて閃理を見つめた。



 雪音はシャワーを浴び、閃理に髪をかわかしてもらい、彼が作ってくれたご飯を食べた。
 食後、彼はまた温かなココアを淹れてくれた。

「あなたが帰ってきてくれてうれしい」
 閃理にそう言われて見つめられる。

 雪音はココアのカップを両手で握りしめた。
 これを飲んだら出て行かなくちゃ。
 そう思うのに、なかなかココアを飲めない。

「僕、一つはできたかな。あなたがうれしいこと」
 閃理はいたずらっぽくたずねる。

 雪音は思い出す。昨日、彼は自分がうれしいことを全部してくれると言っていた。
 最後に、と思う。だったら最後にお願いをしてもいいだろうか。
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