私と彼の溺愛練習帳
「先輩、きれいになりましたよね」
 美和に言われて、雪音はどきっとした。
「そうかな」

 開店して間もなくのことで、客はいない。
 店内にはたくさんの洗濯機が並び、奥には冷蔵庫が並んでいる。棚には炊飯器、電子レンジ、壁にはエアコン。それらに色とりどりのシールが貼られ、おすすめポイントを元気に主張している。誰もいなくてもにぎやかだ。

「いいなあ、きれいになれる恋」
 美和がまた言う。
 クレーマーから助けて以来、妙になつかれている。
 きれいになったのは恋のおかげじゃない、と雪音は思う。

 叔母たちと住んでいるときは嫌がらせを警戒してカラスの行水だったが、閃理の家ではしっかりシャワーを浴びられた。ボディソープなどのケア用品は上質だし、彼が毎晩、丁寧に髪を乾かしてくれた。

 彼は雪音に高い化粧品をくれた。いつもは百均だった。なにがどう違うのかわからないが、すごく違った。
 さらに、メイクアップアーティストから聞いたという情報で肌の手入れをしてくれて、毎朝、化粧をしてくれた。

 リップを塗ってくれるときはどきどきした。顎をクイっと持ち上げられ、固定される。真剣な閃理の顔が近くにあって、両手で包まれるようにして白い指に持つ紅筆でそっと唇を撫でられる。ただそれだけで、背筋がぞくぞくした。

 メイクアップアーティストなんてどこで知り合うの、ときいたら、仕事で、と返って来た。
 ミュージックビデオの撮影をしたことあるから、と有名なアーティストの名前を言った。
 すごいね、と驚くと、そうかな、と平然と答えた。

 一人になったときにスマホで閃理の名前を検索したらすぐにサイトが出て来た。そこに載せられている動画を見てまた驚いた。
 美しいの一言だった。カメラワークがすごくて臨場感も迫力もあった。自分が空を飛んでいるかのようだった。

 最初に見たのはフランスのモン・サン=ミシェルだった。修道院として建てられたそれは島の中に建築物が密集し、荘厳にそびえている。

 心躍る音楽とともに夜明けの画像から始まった。潮がひいて地続きになると、ドローンが橋のようになった陸地沿いに飛んでいく。霧の中の修道院を朝日が照らし、幻想的だった。ドローンは霧の中へ突入する。上昇し、尖塔の天使像をかすめるようにして空に飛び出し、建物群を見下ろす。
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