私と彼の溺愛練習帳
 唇にキスをしたのはあのときだけだった。自分が嫌がったからだろうか。ならばそれ以外もやめてほしいのに。
「あなたのお母さん、フランスの方なのよね?」
「そうだよ」
 閃理は肯定する。

 だったら、キスはあいさつというか、コミュニケーションにすぎないのだろうか。
 正解がわからなくて、雪音はもやもやした。



 土曜日の家電売り場は人でにぎわい、次から次へと対応に追われた。
「平日とか暇な日に分散してくれたらいいのに」
 仕事を終えて、美和がぶつくさ言う。雪音は苦笑した。

「販売の人全員がそう思ってるわ、きっと」
 疲れた体をひきずり、駅前のイルミネーションの中、彼の待つ家に帰るために歩く。
 ……『帰る』。
 雪音はふと立ち止まった。

 すっかりあの場所を『帰る』場所にしてしまっている。
 私は、と雪音は思う。
 私は彼を好きってことでいいんだろうか。
 本当に、彼は自分を好きなのだろうか。

 彼はにこやかに甘いココアを淹れてくれる。わざわざ鍋で練ってミルクをゆっくりと注いで。そんな手間をかける価値が、自分のどこにあるんだろう。

 いつも彼は微笑んでいる。そのせいか、いまいち彼の心をつかめない。
 溺愛される練習、と彼は言った。それも本心が見えなくなる一因だった。愛される練習。そのために彼は優しいのだろうか。

 自分の気持ちもわからない。これは恋でいいのだろうか。ただどきどきしているだけで、恋でも愛でもないのかもしれない。
 一緒にいたい。
 それは依存かもしれない。彼がひとときでも自分を幸せにしてくれるから。
 忘れてはいけない。幸せは薄氷の上にあり、下には待ち構えているもの(・・)がいる。

 不安を胸に、再び歩き出す。
 今は『帰る』しかないのだ。彼が待つあの家に。
 雪音は悄然(しょうぜん)と歩く。影は歩道に色濃く落ちて、彼女と同じ歩幅でとぼとぼと歩いていた。
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