私と彼の溺愛練習帳



 店の外に出ると、空気が冷たくて震えた。
 冬の夜は硬質で、肌に突き刺さって来る。

 思わずついたため息が白く空気を染め、ふわりと消えた。首をすくめるとコートの襟がざらりと頬に触れた。髪をほどけば少しは首があたたかいだろうか。思って、結んである髪をほどいた。胸まである髪が、ばさりと揺れた。

 丸みを帯びた月は小さく白く、夜の片隅においやられていた。

 いつも通りなんだから、と自分に言い聞かせる。
 幸せなんて一時的なもの。結局はいつも、自分の手から零れていく。
 日常に戻っただけだ。つらいのがあたりまえ。それが当然。
 辛苦(しんく)は子供のころから――十歳のころからずっと雪音とともにあった。生きるのは苦行のようだった。

 自分よりつらい思いをしている人がいる。家があってごはんが食べられるだけありがたい。
 そう思おうとしてもやはりつらいものはつらいし、悲しいことは悲しい。

 だけどそれが当たり前になりすぎると、今度は幸せが怖くなる。この幸せのあとにどんなつらいことが待っているのだろう。いつも幸せは恐怖と隣合わせだった。
 そして、つらいことがあるとホッとしてしまう。ああやっぱり。こうなる運命だったんだ。こちらが本当で、幸せは偽物だ。
 そうして、今回も日常に戻っただけだ。

 死を思うことは何度もあった。だが、それを実行する勇気はなかった。母が帰って来た時に自分がいなかったら悲しむ。そう思って耐えて来た。

 ポケットに手をつっこむと、なにかが当たった。
 取り出してみると、それはハサミだった。職場で帰り際に使い、そのまま間違ってポケットに入れてしまったのだ。
 明日……は休みのシフトだから、明後日返せばいいか。

 再びため息をついて、駅に向かって歩く。
 職場は駅から五分の距離の家電ショップだ。
 大きなビル一棟すべて使って家電を売っている。
 雪音はそこで派遣で働いている。

 惣太は家電メーカーの社員で、営業に来ていた。
 初めて会ったとき、彼は店長の武村治(たけむらおさむ)に悪し様に言われてへこんでいた。お前のところの洗濯機、音がうるさいんだよ。レンジだって加熱ムラがあるし、エアコンもいまいちでさあ。武村の営業いじめは今に始まったことではないが、その日は機嫌が悪かったようで、いつも以上にねちねちと彼をいびっていた。

 営業は「売ってもらう」立場なので強く出られない。武村はそれを熟知しているのだ。
 休憩スペースで落ち込んでいる彼に、雪音は缶コーヒーを買って渡した。

「あの店長、性格が悪くて嫌われてるの。気にしないでください」
「ありがとう」
 彼は困ったように弱々しく笑い、コーヒーを受け取った。

「私、そちらのメーカーをたくさん売るようにしますね」
 社交辞令だ。実際にそんなことをやるわけにはいかない。えこひいきと怒られてしまう。彼もそれはわかっているはずだ。
 だが、彼はうれしそうに微笑んだ。優しい笑顔だった。
 以来、彼は雪音を見かけるたびに話しかけてくるようになった。
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