私と彼の溺愛練習帳
 食事に誘われ、出掛けた。穏やかな彼のことを、会うたびに好きになっていった。大卒で大手メーカーに勤める彼は、高卒で派遣の雪音には輝いて見えた。
 なんどか食事に行ったあと、昼間のデートに誘われた。
 海の見える公園で告白された。
 そのとき雪音は言った。あるできごとから大人の関係に抵抗があることを。だからほかの人のほうがいいかもしれない、と。

「待つよ。君がいいと言ってくれるまで」
 彼はまた優しく微笑んだ。
 うれしくてたまらなかった。
 彼は人生で二人目の恋人になった。

 今となっては、と雪音は思う。
 体などどうでもいい、という人と付き合うべきだった。そんな人がいないのはわかっているけど。

 顔を上げると、街は輝いていた。
 イルミネーションだ。
 駅前の木々にはLED電飾が施され、黄金の光が瞬いていた。
 恋人たちが寄り添い、笑いあって通りすぎる。

 クリスマスも新年も終わったと言うのに。
 私は今ふられたばかりだというのに。
 光がぼやけ、景色がじんわりとにじんだ。
 いったんあふれたそれは、止めることができずにこぼれ、頬を濡らす。

「どうして……」
 頭を抱えると、頭皮に爪が刺さった。鈍い痛みが走るが、その程度では涙を止められない。
 わかっている。
 自分が悪いのだ。
 いい年をして、体の関係を拒んだから。

 彼は最初、待つよ、と微笑んでくれた。
 だが、彼は三十三歳の健康な男性だ。
 いつまでも体を許さない自分に、待ちきれなかったのだろう。

 彼は誠実であろうとした。だが、自分が応えられなかった。
 涙が嗚咽を含み、雪音がイルミネーションから逃げようとしたとき。

 がつん、と背になにかが当たった。髪が引っ張られる。
「痛い!」
 うなりを上げながら機械が止まる音がした。
 なにか重いものが髪にひっかかっている。
 そう思って手を伸ばす。つかんで手前に持ってこようとするが、けっこう大きくて、半分しか動かない。

「これ……ドローン?」
 ドローンがどうして自分にぶつかってくるのか、理解できなかった。
 だが、実際にドローンは自分にぶつかり、髪が羽にからまってとれなくなっている。一辺が五十センチはありそうだ。重さもある。一キロか二キロほどの重量で、手で支えないと髪が引っ張られて痛い。

 弱っているときに限って、嫌なことが起きる。
 雪音は顔を歪ませ、また涙をこぼした。
< 7 / 192 >

この作品をシェア

pagetop