私と彼の溺愛練習帳
 愛鈴咲は両手で顔を覆っていて表情が見えない。
 だが、雪音にはわかる。その奥で舌を出して笑っているのが。
「申し訳ございません」
 雪音は歯を食いしばって頭を下げ、言った。

「このことは本部にも苦情をいれるから」
 愛鈴咲は鼻歌を歌いながら店を出て行った。
「お前のせいで!」
 武村は雪音を怒鳴りつける。

「ちったあまともに働け!」
「申し訳ありません」
 雪音は深く頭をさげた。
 お客様の視線が、心に痛かった。


 
 ここまでの電車賃も時間も無駄になっちゃった。
 愛鈴咲は、ふん、と鼻を鳴らした。
 帰り道を歩きながら思い出す。
 彼女が幼稚園児だったある日、母の久美子が「家が手に入った」と言った。
 愛鈴咲は大喜びした。狭いアパートから出て自分だけの部屋が手に入る。

 なのに、引っ越しをしたらあいつがいた。
 家に住み着くお邪魔虫だと思った。
 害虫は退治してやろうと思った。
 寝ている間に髪を切ったり、服を汚したり、いろいろやった。
 なのに、あいつは出て行かなかった。

 雪音はときおり空中を見て、なにかいる、と言った。
 久美子はそれを聞くたびに怖がって雪音を叱りつけた。
 愛鈴咲は嘘だと見破った。だが、怖がる母が面白くて雪音の嘘だとは言わなかった。

 あいつは金食い虫だ、と久美子はこぼした。やっぱり虫だったんだ、と子供の愛鈴咲は思った。
 久美子は高校までは出すと言った。
 その方が給料が上がるからね。世間体もあるんだから。

 雪音は高校卒業後に就職した。工場の事務だ。給料の全額を家に入れたと知って、ようやく役に立つ、と思った。
 だが、一万円をもらっていると聞き、小学生だった愛鈴咲はむっとした。あいつに金なんて必要ない、と。
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