初めての溺愛は雪の色 ~凍えるため息は湯けむりにほどけて~
「逃げるの!?」
 そう言って彼を捕まえ、離さなかった。
 やわらかな手と肢体の感触に、まるで拷問だ、と思った。

 食事は終えたが、今や別のごちそうが眼前に置かれている。艷やかな黒髪に、酒に潤んだ瞳。ほんのりと赤みを差した頬は、熟れていて食べごろですよと訴えかけているかのようだ。が、これは食べてはいけない佳肴(かこう)だ。

 彼女はすっかり酔っていて、彼に腕をからめてグチグチと元カレの愚痴を言っていた。
 話を聞くに、もともと旅は好きだったようだが、元カレにフラレて一人旅に出たのだという。
 最初の印象との違いにも戸惑った。酔いのせいだろうか。きっと普段はもっと大人しい人だろう。
 だが今は興奮状態でまくしたてている。

「かっこよかったの。そりゃあかっこよくてかっこよくて、大好きだったの。だけどほかに女がいたの。問い詰めたら、なんて言ったと思う?」

「なんて?」
「お前のエッチが消極的で下手でつまらないからって!」
 だん、と女はテーブルを叩いた。とっくりとおちょこが、びくんと震えた。

「それはそれは」
 男はなんと答えていいかわからなかった。
「あいつだって夜寝るときは鼻詰まりでスピースピーいってたくせに! 私が耳鼻科を勧めたから治ったのよ! なのに!」
 女はまた酒をあおる。

「飲み過ぎだ」
「今日だけは飲むの!」
 女の目は座っていて、彼はあきれた。
 初対面の男を信用しすぎだ。酒が入るまでは彼を警戒し、敵のような目で見ていたのに。

「別れたあと、プレゼントされたダイヤの指輪を速攻で売りに行ったのよ。今回の旅の資金にしてやったわ! バッグも靴も服も、全部売ってやる!」
 女は鼻息荒く言う。それから、疑問を顔中に浮かべて彼を見た。
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