紫陽花雨と抱きまくら
紫陽花雨と抱きまくら
紫陽花《あじさい》が咲いてる。
お似合いのしとしと雨が降る。
窓枠に絵画のように、景色が広がってる。
アパートの軒先に無造作に置かれた自転車が寂しげに見えて、私はふと頼りを求めて後ろを振り返った。
視界の先には蓮《れん》ちゃんがいて。
私のベッドに当たり前のように、蓮ちゃんがスヤスヤ寝ている。
蓮ちゃんは時々いびきをかく。
するとなんだか、私はホッとする。
私の部屋で我が物顔。
でもそんな顔の蓮ちゃんが好きだ。それが彼らしくて、ずっと好きだ。
私は蓮ちゃんの顔ならどんな表情も好きで、気に入っている。
怒り顔すら、見慣れた蓮ちゃんなら、どこか愛しくさえある。
私は蓮ちゃんのなんだろ。
ファンに近いのかな。
蓮ちゃんはきっと私の『推し』、なのだ。
だけど一つだけ蓮ちゃんの関わるものできらいなものがある。
蓮ちゃんがずっとスマホから流してる気怠げな音楽がきらい。
蓮ちゃんは好きなんだ。
何の曲かは知らない。
誰の歌かは分からない。
よく分からない、時々ノイズや不協和音すらして、私の心はざわつき落ち着かない。そわそわといたたまれなくなる。
私はもっとポップでアップテンポな曲が好きなのだ。
J-POPや洋楽もアニメソングも聴く。
話題になって耳にすれば、自然と口ずさんでいる。
明るくて勢いがあって。
――そう、まるで私と正反対。
求めているのは、欠けているからだろうか。
毎日、蓮ちゃんはウチに来る。
蓮ちゃんは食材を買い込んでウチに上がり込み一緒にご飯を作って私と一緒に食べて、ウチでお風呂に入って、私のベッドに潜り込み、一緒に眠る。
だけどさ――。
信じられないことに、私と蓮ちゃんは一度もキスも何もない。
私たちの間には、肉体関係はまるでない。ましてや兄妹とか血の繋がりもない。
友情と呼ぶには近すぎる距離。
でも、恋人同士と呼ぶには、銀河の端と端ぐらいに遥か遠い遠い距離。
蓮ちゃんには、私が知る限り恋人がいたことがない。
私と蓮ちゃん、付き合い長いけど。
私にはこれまで何人か彼氏がいたが、蓮ちゃんの存在が明るみになるとみんな離れていった。
男の人って、案外繊細で臆病なんだなと思ったりした。
時に、女は度胸があって大胆だ。
ジェンダーレスな時代というが、男女の特色というか性質みたいなもんが偏見かも知れないけど、それってあるのかもしれないとも思う。
それは本能的な、子孫を残すとかそういった時に、出る気がする。
私の周りの女性はそういう子が多い。ここ一番に、とんでもなく能力を発揮する。
幾人かの友達は勘が鋭い。
女の勘は、たしかに存在する気がする。
私もまた、ついこの間の彼氏に発揮してしまった。
――私は、相手の浮気を察知してしまう。
気持ちをうやむやに誤魔化せない。
修羅場になる前に、私はサッと身を引くのがお決まりだった。
そんな時には。
蓮ちゃんがいる――と。
だから大丈夫って、なんでかいつからか思ってる。
これはものすごく心強い。
だが逃げ場があるという安心感は、常に私を蓮ちゃん以外の男にのめり込むほどには気持ちを向かわせないのかも知れなかった。
『何も見えないぐらい貴男が好き』
そんな相手に巡り会えない。
蓮ちゃんが私のそばにいる限り。
この人を失ったら二度と愛せる相手に出会えない、恋愛出来ないかも? って切羽詰まった想いを持ったり、その人だけしかいないなんてことにはならないからだ。
――蓮ちゃんが他の男を霞《かす》ませる。
よく考えたら、蓮ちゃんは悪い男ではないか?
天使みたいな癒やしを私にくれる、悪魔。
見かけは天使でも甘い悪魔だ、悪魔なんだ。
昔は周りに私と蓮ちゃんの仲を疑われ囃《はや》し立てられたりしたが、もうそんなことはない。
私たちはもう、30才を超えたのだ。
20代にはあった、恋愛に抱く夢や希望や可能性は、現実を見るという形でもって、冷めた目で……、いやより冷静かつ的確に見ることになった。
つまり、私は蓮ちゃんに何も期待しないということだ。
「なぁ、奈緒《なお》。抱きまくら」
「抱きまくら、買いなさいよ」
「いやだ。奈緒の抱きまくらが良い」
「仕方ないなぁ」
私がゆっくりとベッドに戻り潜り込むと「奈緒が良い」と、蓮ちゃんが後ろから抱きついてくる。
私が蓮ちゃんの抱きまくらになるってわけ。
シーツの音、買ったばかりのひまわりの布団カバーがガサガサ言った。
一度洗ってもまだ新品感がして、肌に馴染まない。
ひまわり柄が二人を包みこむ。
「ねぇ、あの音楽止めて」
「もしかして、きらい?」
私は勇気を出していった。
あー、やっと言ってやった。
「うん、きらい。蓮ちゃんが好きでも私はあの曲きらい」
「ふふふっ。俺もあの曲きらいなんだなあ」
はぁ――っ?
へっ? ナニソレ。
「俺は奈緒の何もかもが好きで。奈緒は俺の何もかもが好きでしょ?」
「知らないよ。そんなこと無い。自信過剰過ぎ」
「うん、奈緒が言うなら俺は自信過剰マンで良し。……試しにさ、二人のなかにひとつ奈緒と俺の『きらい』を入れてみた」
「意味分かんないっ!」
私が怒ると、蓮ちゃんがますますぎゅっと抱きしめる。
え――っ?
それから、くるりと私の向きを変えるとおもむろに口づけた。
「あっ……」
吐息が漏れた。
胸の奥に熱さが灯る。
二人の心臓のドキドキが聴こえる。
きゅんっとうずくような甘さが身体を満ちていく。
キス、してきた。
蓮ちゃんが私にキスしてきた!
大変!
一大事だ、大変だ。
私のなか、がらがらと音を立てて築いてきた心の壁が壊れていく。
私たちは越えない――、私は越えちゃいけないって思っていた境界線の壁は、いとも簡単に崩れ去る。
「キ、キスしたよね? ……ねえ、今! 蓮ちゃん、私にキスしてきたよねっ?」
「……うん、キスした。だってずっとしたかったから。……俺、奈緒のこと、全部好きすぎて怖かった。自信なんてないんだ。俺はダメダメな人間だから。愛し過ぎたら奈緒を壊してしまうかも知れない」
「何よそれ、バカね。蓮ちゃんに壊されるほど私、弱くないから」
「……まぁ、そっか」
「もうっ!」
私が今度自分の唇を、自分から蓮ちゃんの唇に押し当てる。
――あっ、私、震えてる。
「じゃあ確認します」
「んっ?」
「恋に純情で臆病すぎる蓮ちゃんは、私のことが大好きということでよろしいですか?」
「……。改めて言われるとちょっと」
「照れちゃって〜」
「奈緒」
「んっ?」
「好きだ」
言うの遅いよ、蓮ちゃん。
まぁ、うん。まぁいっか。
「……私、蓮ちゃんが好き」
曖昧さは心地よくも、時には苦しい。
私と蓮ちゃんは、やっと一歩進んだのだろう。
ザーザー雨が音を立ててる。
まるで世界が変わった。
キラキラ虹色に輝く。
煌めいている。
不安も不満もなくなった。
私は蓮ちゃんの腕のなかで目を閉じた。
しとしと雨もザーザー雨も、私の胸をもう灰色の感情に染めることはない。
「俺、雨は苦手だったけど好きになれそうだなぁ。今日、奈緒と想いが通じたから。これからはさ、雨が降るたびにこの幸せな気持ちを思い出せる」
「蓮ちゃん、時々詩人だね。ロマンチック」
「奈緒が傍にいれば俺はいつでもロマンチックになれそうだよ」
「……恥ずかしい」
「いいじゃん、二人きりだ」
蓮ちゃんからは逃れられない。
実は蓮ちゃんは私をずっと掴まえてたんだ。
私は気づかないうちに蓮ちゃんという甘い存在の罠に、彼の居心地の良さという深みにハマってたんだ。
私は蓮ちゃんの抱きまくらになったまま、目を閉じた。
やがてうっとりと溶けるような熱さ、蓮ちゃんの体温に身も心も甘やかされて蕩《とろ》けていく。
移し合う体の熱と感触としっとりと濡れた唇を寄せ合って触れて、弱く強く互いを刻み込んでいく。
蓮ちゃんと両想いになんて、とっくのとうになってたんだ。
知らない間に。
ううん、心のどこかで気づいてたのかもしれない。
――悪魔なカレシだ。
私はきっとずっと蓮ちゃんから離れられない。
蓮ちゃんと私――。
私たちは互いの温もりを感じながら、いつまでも抱き合っていた。
了
お似合いのしとしと雨が降る。
窓枠に絵画のように、景色が広がってる。
アパートの軒先に無造作に置かれた自転車が寂しげに見えて、私はふと頼りを求めて後ろを振り返った。
視界の先には蓮《れん》ちゃんがいて。
私のベッドに当たり前のように、蓮ちゃんがスヤスヤ寝ている。
蓮ちゃんは時々いびきをかく。
するとなんだか、私はホッとする。
私の部屋で我が物顔。
でもそんな顔の蓮ちゃんが好きだ。それが彼らしくて、ずっと好きだ。
私は蓮ちゃんの顔ならどんな表情も好きで、気に入っている。
怒り顔すら、見慣れた蓮ちゃんなら、どこか愛しくさえある。
私は蓮ちゃんのなんだろ。
ファンに近いのかな。
蓮ちゃんはきっと私の『推し』、なのだ。
だけど一つだけ蓮ちゃんの関わるものできらいなものがある。
蓮ちゃんがずっとスマホから流してる気怠げな音楽がきらい。
蓮ちゃんは好きなんだ。
何の曲かは知らない。
誰の歌かは分からない。
よく分からない、時々ノイズや不協和音すらして、私の心はざわつき落ち着かない。そわそわといたたまれなくなる。
私はもっとポップでアップテンポな曲が好きなのだ。
J-POPや洋楽もアニメソングも聴く。
話題になって耳にすれば、自然と口ずさんでいる。
明るくて勢いがあって。
――そう、まるで私と正反対。
求めているのは、欠けているからだろうか。
毎日、蓮ちゃんはウチに来る。
蓮ちゃんは食材を買い込んでウチに上がり込み一緒にご飯を作って私と一緒に食べて、ウチでお風呂に入って、私のベッドに潜り込み、一緒に眠る。
だけどさ――。
信じられないことに、私と蓮ちゃんは一度もキスも何もない。
私たちの間には、肉体関係はまるでない。ましてや兄妹とか血の繋がりもない。
友情と呼ぶには近すぎる距離。
でも、恋人同士と呼ぶには、銀河の端と端ぐらいに遥か遠い遠い距離。
蓮ちゃんには、私が知る限り恋人がいたことがない。
私と蓮ちゃん、付き合い長いけど。
私にはこれまで何人か彼氏がいたが、蓮ちゃんの存在が明るみになるとみんな離れていった。
男の人って、案外繊細で臆病なんだなと思ったりした。
時に、女は度胸があって大胆だ。
ジェンダーレスな時代というが、男女の特色というか性質みたいなもんが偏見かも知れないけど、それってあるのかもしれないとも思う。
それは本能的な、子孫を残すとかそういった時に、出る気がする。
私の周りの女性はそういう子が多い。ここ一番に、とんでもなく能力を発揮する。
幾人かの友達は勘が鋭い。
女の勘は、たしかに存在する気がする。
私もまた、ついこの間の彼氏に発揮してしまった。
――私は、相手の浮気を察知してしまう。
気持ちをうやむやに誤魔化せない。
修羅場になる前に、私はサッと身を引くのがお決まりだった。
そんな時には。
蓮ちゃんがいる――と。
だから大丈夫って、なんでかいつからか思ってる。
これはものすごく心強い。
だが逃げ場があるという安心感は、常に私を蓮ちゃん以外の男にのめり込むほどには気持ちを向かわせないのかも知れなかった。
『何も見えないぐらい貴男が好き』
そんな相手に巡り会えない。
蓮ちゃんが私のそばにいる限り。
この人を失ったら二度と愛せる相手に出会えない、恋愛出来ないかも? って切羽詰まった想いを持ったり、その人だけしかいないなんてことにはならないからだ。
――蓮ちゃんが他の男を霞《かす》ませる。
よく考えたら、蓮ちゃんは悪い男ではないか?
天使みたいな癒やしを私にくれる、悪魔。
見かけは天使でも甘い悪魔だ、悪魔なんだ。
昔は周りに私と蓮ちゃんの仲を疑われ囃《はや》し立てられたりしたが、もうそんなことはない。
私たちはもう、30才を超えたのだ。
20代にはあった、恋愛に抱く夢や希望や可能性は、現実を見るという形でもって、冷めた目で……、いやより冷静かつ的確に見ることになった。
つまり、私は蓮ちゃんに何も期待しないということだ。
「なぁ、奈緒《なお》。抱きまくら」
「抱きまくら、買いなさいよ」
「いやだ。奈緒の抱きまくらが良い」
「仕方ないなぁ」
私がゆっくりとベッドに戻り潜り込むと「奈緒が良い」と、蓮ちゃんが後ろから抱きついてくる。
私が蓮ちゃんの抱きまくらになるってわけ。
シーツの音、買ったばかりのひまわりの布団カバーがガサガサ言った。
一度洗ってもまだ新品感がして、肌に馴染まない。
ひまわり柄が二人を包みこむ。
「ねぇ、あの音楽止めて」
「もしかして、きらい?」
私は勇気を出していった。
あー、やっと言ってやった。
「うん、きらい。蓮ちゃんが好きでも私はあの曲きらい」
「ふふふっ。俺もあの曲きらいなんだなあ」
はぁ――っ?
へっ? ナニソレ。
「俺は奈緒の何もかもが好きで。奈緒は俺の何もかもが好きでしょ?」
「知らないよ。そんなこと無い。自信過剰過ぎ」
「うん、奈緒が言うなら俺は自信過剰マンで良し。……試しにさ、二人のなかにひとつ奈緒と俺の『きらい』を入れてみた」
「意味分かんないっ!」
私が怒ると、蓮ちゃんがますますぎゅっと抱きしめる。
え――っ?
それから、くるりと私の向きを変えるとおもむろに口づけた。
「あっ……」
吐息が漏れた。
胸の奥に熱さが灯る。
二人の心臓のドキドキが聴こえる。
きゅんっとうずくような甘さが身体を満ちていく。
キス、してきた。
蓮ちゃんが私にキスしてきた!
大変!
一大事だ、大変だ。
私のなか、がらがらと音を立てて築いてきた心の壁が壊れていく。
私たちは越えない――、私は越えちゃいけないって思っていた境界線の壁は、いとも簡単に崩れ去る。
「キ、キスしたよね? ……ねえ、今! 蓮ちゃん、私にキスしてきたよねっ?」
「……うん、キスした。だってずっとしたかったから。……俺、奈緒のこと、全部好きすぎて怖かった。自信なんてないんだ。俺はダメダメな人間だから。愛し過ぎたら奈緒を壊してしまうかも知れない」
「何よそれ、バカね。蓮ちゃんに壊されるほど私、弱くないから」
「……まぁ、そっか」
「もうっ!」
私が今度自分の唇を、自分から蓮ちゃんの唇に押し当てる。
――あっ、私、震えてる。
「じゃあ確認します」
「んっ?」
「恋に純情で臆病すぎる蓮ちゃんは、私のことが大好きということでよろしいですか?」
「……。改めて言われるとちょっと」
「照れちゃって〜」
「奈緒」
「んっ?」
「好きだ」
言うの遅いよ、蓮ちゃん。
まぁ、うん。まぁいっか。
「……私、蓮ちゃんが好き」
曖昧さは心地よくも、時には苦しい。
私と蓮ちゃんは、やっと一歩進んだのだろう。
ザーザー雨が音を立ててる。
まるで世界が変わった。
キラキラ虹色に輝く。
煌めいている。
不安も不満もなくなった。
私は蓮ちゃんの腕のなかで目を閉じた。
しとしと雨もザーザー雨も、私の胸をもう灰色の感情に染めることはない。
「俺、雨は苦手だったけど好きになれそうだなぁ。今日、奈緒と想いが通じたから。これからはさ、雨が降るたびにこの幸せな気持ちを思い出せる」
「蓮ちゃん、時々詩人だね。ロマンチック」
「奈緒が傍にいれば俺はいつでもロマンチックになれそうだよ」
「……恥ずかしい」
「いいじゃん、二人きりだ」
蓮ちゃんからは逃れられない。
実は蓮ちゃんは私をずっと掴まえてたんだ。
私は気づかないうちに蓮ちゃんという甘い存在の罠に、彼の居心地の良さという深みにハマってたんだ。
私は蓮ちゃんの抱きまくらになったまま、目を閉じた。
やがてうっとりと溶けるような熱さ、蓮ちゃんの体温に身も心も甘やかされて蕩《とろ》けていく。
移し合う体の熱と感触としっとりと濡れた唇を寄せ合って触れて、弱く強く互いを刻み込んでいく。
蓮ちゃんと両想いになんて、とっくのとうになってたんだ。
知らない間に。
ううん、心のどこかで気づいてたのかもしれない。
――悪魔なカレシだ。
私はきっとずっと蓮ちゃんから離れられない。
蓮ちゃんと私――。
私たちは互いの温もりを感じながら、いつまでも抱き合っていた。
了