御曹司は初心な彼女を腕の中に抱きとめたい
今でも毎晩彼がどうしているのか考えてしまう。枕元に置いた彼の家から持ってきたタオルはすでに匂いなんてなくなっているだろうけど、どうしても洗濯をする気になれなかった。
誰も帰ってこない部屋に帰るたび、私は一人なんだと実感させられる。
寂しい……。
蒼生さんは元気にしているのだろうか? ご飯は食べているのか、眠っているのか、気になって仕方ない。
後継者指名を受け、研究はやめてしまったのだろうか?
彼の後ろ盾になってくれるような人を見つけ、新しい生活を始めているのだろうか……。
考え始めてしまうと悪い方へ進みがち。私は頬を叩くと気持ちを入れ替え、夕飯の準備に取り掛かった。ご飯を炊き、魚を焼く。温野菜のサラダを作っていると急に吐き気が込み上げてきて驚いた。
慌ててトイレに駆け込んだ。さっきまで何の前兆もなかったのに吐き気がくるなんてどうしたのだろう。
吐き戻したあとキッチンに戻ってくるが、やっぱりここにいると吐き気がしてくる。またトイレに戻ると床に座り込んでしまう。
吐くものがなくなってもまだムカムカした感じが収まらない。
どのくらいこうしていたのだろうか。体は冷え切り、寒い。何も食べずに私は布団に潜り込んだ。
翌朝も胃のムカつきが収まらない。吐く物がないので吐けないが、気持ちの悪さと眩暈が少しある。
店長に連絡すると飲食業なので病院を受診してほしいと言われ、今日は休みになった。
私はだるい体を引きずるように奥さんに教えてもらった総合病院を受診した。
問診を取られると尿検査をするよう促される。そして私は内科ではなく婦人科から呼ばれた。

「安藤さん、妊娠反応が出ています。早速ですがエコーで確認してみましょう」

「妊娠……」

そばについている看護師促され、私は初めて内診台に乗った。

あ……

私がみてもわかるくらいに人間の形をしたものが写っていた。

「妊娠されていますね。多分10週くらいじゃないかと思います。今つわりが出ているなんて少し遅いくらい。一ヶ月くらい前に体調を崩していた時期はなかった?」

そのころはちょうど今のマンションに引っ越してきたころだ。毎晩のように泣き明かし、食欲もなく水分くらいしかとっていなかった。
別れたショックだけだと思っていたが、まさかそのころつわりも同時期にあったなんて。

「体調の悪い時はありました。ちょっと辛いことがあって泣いたりしていました。赤ちゃんは大丈夫なんでしょうか」

「赤ちゃんは元気そうよ。心臓も良く動いていましたよ。泣いていたのはホルモンバランスが崩れたせいもあったのかもしれないですね。でも赤ちゃんはすくすく大きくなっているところです。もしかしたらそろそろ気がついてほしくて体調を崩させたのかしら」

医師の言葉にホッとした。そして今まで気がついて上げられなかったことに反省をした。けれど心音の確認もできているのですでに安定期に入りつつあるとのことだった。

「妊娠の継続を希望ということで大丈夫でしょうか?」

医師が伺うように聞いてきた。私が未婚のため確認してきたのだろう。もちろん不安はある。でもどうしてもこの子に会いたくなってしまった。ここにいると気がついて、愛おしい存在になってしまった。この子に会わないという選択はしたくない。

「お願いします!」

先ほどまでの吐き気が嘘のように落ち着いてきた。さっき医師に言われたように、赤ちゃんがここにいるよ、気がついてとサインを送ってきたとしか思えなかった。
今日の計算だと出産は六月の末から七月にかけてだと言われた。
私は病院からの帰りに職場であるパン屋さんに寄った。お昼の時間を過ぎたからかお客さんはちょうどいなかった。

「みちるちゃん、病院はどうだった?」

奥さんが裏から出てきてくれた。

「あの、食中毒とかではなくて、その……妊娠していました」

「に、妊娠?」

「はい。つわりのようでした。でももうスッキリしてしまいました」

つわりだったのに病院に行ったらスッキリした? 奥さんにはどういうことなのかわからず、返答に困っていた。

「妊娠三ヶ月に入っているそうです。そう言われると1ヶ月くらい前に体調を崩していたのですが、それがつわりだったようなんです。今回は妊娠に気がつかない鈍い私にアピールするためにつわりを起こしたんじゃないか、なんて先生にも笑われました」

「え、でもみちるちゃんは独身」

「そうです。なので今後出勤できなくなります。でも金銭的なこともあり、できればギリギリまで働かせてもらえないでしょうか。ご迷惑はかけません、お願いします」

ガバッと頭を下げた。このままここで働かせてもらえないと困ったことになる。もし辞めるように言われてしまったら、次は見つからないだろう。あと数ヶ月しか働けない妊婦を雇うところなんて絶対にない。でもここだって働ける人が欲しいに決まっている。妊娠したのは予想外だったが、もしここで働けないとなってもこの子を諦めるつもりはなかった。

「みちるちゃん、大丈夫だから頭を上げて」

奥さんの声に頭を挙げた。気がつくと店長さんも近くまで来ていた。

「大丈夫よ。ここで働くといいわ。でもその代わり何かあったら話してほしいの。みちるちゃんは一人じゃない」

抱きしめられるとその温かさに涙がこぼれ落ちた。さっきまで不安で仕方なかった。赤ちゃんがいたことは本当に嬉しい。でも今後の生活を考えると喜んでばかりではいられないんだと感じていた。だからこんな言葉をかけてもらえるなんてて想像もしていなかった。奥さんの温もりにこのところやっと泣かずに過ごしていたのに久しぶりの涙が流れてしまった。
< 50 / 60 >

この作品をシェア

pagetop