失楽園「アダムとイブの恋愛小説です」

失楽園「アダムとイブの恋愛小説です」

神は世界を六日でつくった。信じられない速さである。しかし、つくった、と聖書に書いてあるのだから信じておけばいいではないか。「信じるものはすくわれる」とも言うではないか。一部の疑い深い人々は信じない。150億年かかった、という説を盲信している。しかし、それは証明されたのか。一方、神が六日で世界をつくったという事は誤りであるという仮説は科学的に証明できるのか。証明できないものを、蓋然性によって否定することは科学者のとるべき態度ではない。「なんかウソッぽいなー」と、思ってはならない。それは科学者のとるべき態度ではない。ここらへんで宗教を拒否する人が、たまにいるが、捨ててしまうには、あまりにももったいない価値ある思想が多すぎる。一部の科学者は、おとぎ話のような創造説を否定し、進化論を盲信し、万一、創造説を唱えようものなら、額に青筋を立て、蟹のように口角泡を飛ばし、ムキになって研究されてきた科学的根拠をもって、否定しようとする。しかし、ムキになる人間の顔ほど滑稽なものがこの世にあるだろうか。ともかく、「つくった」と書かれているのだから、一つの仮説として残しておくべきである。哲学者のセネカも「我々を害悪に巻き込む最も甚だしいのは多数者の賛成によって承認された事を最善と考えて世論に同調することであり・・・」と言っている。何と歯切れのよい爽快な文章であることか。それにしても何と哲学者は偏屈な態度をとるものか・・・。彼らは皆、多数者が白と言えば黒と言い、黒と言えば白と言おうとする。これは天邪鬼ではない。彼らはいつもテーゼに対し、無意識の内にアンチテーゼを立ててしまうのである。だから哲学者ほど、うざったいものはない。もっと常識を信じて、波風立てずに、生きればいいものを・・・。しかし、実際には波風立たない。彼は常識教の信者と口論する気はないからである。哲学者は真の哲学者としか口論しない。あるいは心の内にあるテーゼに対しアンチテーゼを立て、一人弁証法をするか、あるいは文にするかである。
ともかくこの世は六日にしてつくられた。のである。

「幸いなるかな心貧しき者、天国は汝らのものなり」(マタイ伝5章3節)

 今からずうっと前、この世に楽園がありました。そこではありとあらゆる果実が実り、美しい蝶や鳥が飛び回っていました。その中に二人の純真な少年と少女がいました。二人はこの楽園で、毎日、追いかけっこをしたり、水を掛け合ったりして無邪気に楽しく毎日を過ごしていました。神はこの楽園のものは全て自由にしてよいと仰いました。しかし、あの木の実だけは決して食べてはならないぞ、と仰いました。二人は跪いて、
「はい。神様の教えです。私たちは絶対、あの木の実は食べません」
と、慎ましく言いました。二人はニッコリ笑って、
「あの木には絶対近づかないようにしよう」
と、誓い合いました。二人は、美しい浜辺やちゅら海水族館や東西植物園などで遊びながら、暮らしました。でも、何事にも「厭き」というものは来るものです。二人はだんだん、この単調な生活に厭きるようになりました。そんな時、二人の関心は、禁断の木に向けられるようになりました。「してはならない」と言われると、よけいしてみたくなるのが人間の心理というものです。ある時、イブがアダムに話しかけました。
「ねえ。あの木の実を食べると、いけないと神様は言ったけど、あの木の実を食べるとどうなるのかしら」
イブの目は好奇心でいっぱでした。
「わからないよ。きっと毒の実なんだろう。神様は僕たちを守るために毒の木を教えてくれたんだよ」
敬虔なアダムはそう言いました。しかしイブは反論しました。
「そうかしら。私はそうは思わないわ。きっと、あの木の実を食べると私達に都合の悪い事があるからだわ。あの木の実を食べるときっと、私たちも神様みたいに偉くなれるのよ。あした、食べに行きましょう」
イブはウィンクして言いました。しかしアダムは首を振りました。
「だめだめ。もしかすると毒の実で、僕たちを守ってくれるために忠告して下さったのかもしれないよ。それはわからない。ともかく神様の御心を揣摩すること自体、不敬だよ。神様は全てお見通しだ。今、僕達がこうして話している事も神様はお見通しだ。いいかい。絶対、あの木に近づいちゃいけないよ。孔子だって、『君子、危うきに近よらず』と言ってるじゃないか」
「わかったわ」
イブの目はちょっと残念そうでした。二人はその晩、豚の丸焼きとパイナップルを食べて手をつないで眠りました。翌朝早くイブはそっとアダムが寝ているのを確かめてから、あの禁断の木に向かいました。好奇心を抑えることが出来ませんでした。そっと近づいて見ると、その禁断の木は別に特に美しいわけでもなく、何の変哲もない木でした。実もバナナやパイナップル、マンゴー、葡萄、などと比べて特に美しくもありませんでした。イブも、この実を食べれば神様になれるとは、確信していませんでした。でも、食べると、どうかなることには違いない、何の変化も無いはずはないという事には確信に近いものを持っていました。その時です。木から一匹の蛇が木を伝わって降りてきました。赤い舌をチョロチョロ出しながら。イブは急に出てきた、はじめてみるこの奇妙な動物に驚いて、一歩、後ずさりしました。
「あ、あなたは誰」
「僕か。僕はヘビと言うんだ。君が何をしに来たか、わかってるぞ。この木の実を食べに来たんだろう」
「い、いえ。ちょっと自然散策で、この木は何科の樹木かと思って・・・」
「嘘をつけ。女にそんな向学心がある筈はない。女はファッションとお喋りと食う事しか興味のない下等な動物だ。あと、芸能人のスキャンダルと、お笑いと、ホラー映画だ。そういうものに対する興味は男とはくらべものにならないほど強い。この場合は、まあ怖いもの見たさだな」
「そ、そんなことないわ」
イブは首を振りましたが、当たっている事はムキになって発した語調の強さで明らかでした。蛇はニヤリと笑いました。
「いい事を教えてやろう。この実を食べると神様になれるんだ」
自分のカンで思った事を寸分たがわず蛇が確証したので、イブはつい興味の目で木の実をじっと見つめました。
「ほ、ほんとう」
イブは小さな声でそっと問い返しました。
「ああ。本当だとも」
イブはゴクリと唾を飲みました。ソロソロと好奇心の手が伸びて、そっと木の実を一つ、もぎ取ると小さな口を開けてそっとかじりました。
「イブ。何という事をしているんだ」
アダムが転げるように駆け寄ってくるのが見えました。その時です。晴天がにわかに掻き曇り、暗雲が空一面を覆い、ゴロゴロゴローと天地を裂くほどの雷鳴が起こりました。天からは神の怒りの声がとどろきました。
「アダムよ。イブよ。お前たちは私との約束を破ったな。もう、お前たちは楽園に住むことは出来ぬ。それは『知』の実だ。もう、お前たちは私の庇護を受けることは出来ぬ。お前たちはお前たちの足で歩かねばならん」
それまで裸でも恥ずかしくなかった二人は「知」が宿ると同時に己の体を見られる事に羞恥を感じ、イブは胸とそこを手で覆い隠し、アダムはそこを芭蕉の葉で隠しました。

 二人は楽園を離れ、島の北部へと向かいました。南国とはいえ、そこはうら寂しい所でした。二人はそこに小さな庵をつくりました。
「ゴ、ゴメンなさい。アダム。私の軽挙妄動のため、こんな事になってしまって・・・」
イブは蔓と葉で胸と秘所を覆った姿で泣いてアダムに謝りました。アダムは慈悲に満ちた目でイブの肩にそっと手をかけました。
「いいんだよ。イブ。確かに生活は苦しくなった。僕たちは自分の足で歩かなくてはならなくなった。でも、それが一概に悪いとも思えないような気がするんだ。君のその蔓のビキニ姿は物凄くセクシーで悩ましい。僕は今、心臓が高鳴っているんだ。労あれば楽しみもあり、だ。禁断の実を食べた事で神様の庇護は受けられなくなった。しかし神の庇護はいわば親のスネかじりだ。ある哲学者(ジョン・スチュワート・ミル)だって、『満足した豚であるより、不満足なソクラテスであれ』と言っているじゃないか。僕たちは、否応無くドラマのある人生を歩まねばならなくなった。苦しくてもドラマのある人生の方が素晴らしい。母の胎内で眠っていれば、安楽ではあるけど、何も無い。僕たちは苦しくてもドラマのある人生を送る事になった。君の選んだ選択は良とも悪とも僕にはわからない。しかし、前からわからなかったけれど、一つわかった事がある」
「なあに」
イブはうっとりと聞き惚れていました。
「聖書にある『幸いなるかな。心貧しき者。天国は汝らのものなり』という所だ。僕はなぜ、心貧しい者が幸いなのか疑問だった。しかし今その意味がわかったんだ」
アダムは思慮深そうな顔で言いました。イブは七部の後悔と二部の不安と一部の好奇の目でアダムを見つめました。
「ど、どういうことなの。私、あなたの肋骨の一部からつくられたほどバカだし、そもそも芸能人のスキャンダルとファッションと星座占いとダイエット法とエステにしか興味がないから、聖書の言葉の意味なんて全然わからないの。政治や経済の事なんてチンプンカンプンだわ。でも、難しい事に興味が向くあなたって凄くかっこいいわ」
そう言ってイブは背後からアダムにひしっとしがみつきました。
「教えて」
アダムはおもむろに口を開きました。
「つまりだな。心の貧しい者とは、考える能力を持っていない者だ。『知』の無い人間だ。楽園にいた時の僕達がそうだった。そういう人間はひたすら神を信じるしかないのだ。キリストはそういう人間を、幸いだ、と言っている。つまり、キリスト教はバカで、ひたすら神をあがめる人間を祝福している。キリスト教は人間を侮辱した宗教だ。一方、心豊かな者の事には言及していない。幸いとも、不幸とも言っていない。心豊かな者とは思慮の深い人間の事だろう。自分で理非分別が出来る人間だ。そういう者は、キリスト教の圏外の人間だ、という事だろう。事実、世の中には神に匹敵するほどの聡明さと良心を持った人間も極めて僅かではあるが存在する。神はそういう者(心豊かな者)は、キリスト教に頼らず、自分で考えて生きよ、と言っているのだろう。『シーザーのものはシーザーへ。神のものは神へ』という発言がそれをよくあらわしている。ともかくキリスト教は人間を莫迦とみている宗教である事は間違いない」
アダムは確信に満ちた口調で言いました。イブはアダムの弁論に、うっとりと目を閉じて聞いていました。が、もちろん女であるため論理的なことには興味がなさそうな様子でした。ただイブの目にはアダムがこの上なく逞しく見えていました。イブは、この人にどこどこまでも着いて行こうと、アダムをひしっと抱きしめました。
< 1 / 1 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア

pagetop