嘘と恋とシンデレラ



 彼に連れられるがまま歩き、辿り着いたのは人気(ひとけ)のない裏庭だった。
 人目を忍ぶにはちょうどいい場所だ。

「…………」

 わたしの手を離すと、ややあって振り返る星野くん。

 彼はやっぱり、いつだって選択肢を奪わない。
 今もわたしの意思ひとつで逃げられる。

「これ、返すね」

 差し出されたのはカッターナイフだった。
 そういえば昨日、その手に渡ったままになっていた。

「あ……ごめんね、わざわざありがとう」

 狂愛(きょうあい)をほのめかすような微笑まで思い出してしまい、どういう顔をすればいいのか分からなくなる。

 少なくともこれを返したということは、愛沢くんに手をかける判断は思い直してくれたのかな。

 そんなことを考えたとき、不意に彼の手が伸びてきた。
 昨晩のようにそっと頬に添えられる。

「……やつれてる」

 労わるように親指で撫でられた。
 儚げに睫毛が揺れる。

「きみは今、幸せじゃないんだね」

 すぐに答えられなかった。
 それでも星野くんの口調は、尋ねているのとは違って聞こえる。

 する、と温もりが滑り落ちていく。

「……やっぱりやめておけばよかった。あんなこと」

 目を伏せ、呟いた声色は悔しげだ。

(“あんなこと”?)

 弾かれたように顔を上げる。
 けれど尋ねる前に星野くんも視線を上げた。

(あ……)

 絡んだ視線に、ぞく、と背筋が冷えて強張る。

 綺麗な顔に優しい微笑み。
 だけどそこに含まれているのは、昨夜と同じ静かな狂気。

「僕のせいできみが苦しむのは嫌だから……」

 彼の手が再びこちらへ伸びてくる。
 今度は両手がわたしの首にかけられた。

「え」

「終わらせてあげるよ、いつでも」

 息を呑む。呼吸が止まる。
 瞬きを忘れた瞳が揺れるのを自覚した。

「僕と一緒に死ぬ?」

 柔らかな双眸(そうぼう)には迷いも曇りもなくて、澄んでいるのにどこか(うつ)ろだ。

 見つめていると吸い込まれてしまいそうになる。
 正気を奪われ、その倒錯(とうさく)的な愛に侵される。

「……っ」

 さっと血の気が引いていく。

 早鐘(はやがね)を打つ心臓に急かされるように、必死でその手を剥がして押し返した。

「……こころ?」

「やだ……っ」

 精一杯強気で拒絶したつもりなのに、声は弱々しく震えて掠れる。

 カッターナイフを握り締めたまま後ずさり、駆けて逃げ出した。
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