政略結婚は純愛のように番外編〜チョコの思い出〜
遠い思い出
午後十二時を回った今井コンツェルン北部支社の秘書室にて。
由梨は時間を確認して、パソコンを一旦ログオフする。昼休憩だ。
向かいの席に目をやると、先輩の長坂も肩に手を置いて首を回している。
どうやら彼女も休憩に入ったようだ。
由梨は机の下に置いてあるカバンからラッピングされた包みをいくつか出す。そのうちのひとつを手に立ち上がる。
「長坂先輩」
声をかけると、彼女は首を回すのをやめて由梨を見た。
「なに?」
「あの、これ……どうぞ。チョコレートです」
すると彼女は驚いたように包みと由梨を交互に見る。
「もしかして、バレンタインの?」
「はい」
「……ありがとう」
受け取ってくれたことにホッとして、由梨が席に戻ると長坂が包みを見て口を開いた。
「これ、この間丸大百貨店に初出店した店のやつね。行列ができてて買えないって同僚が言ってたけど、……わざわざ並んだの?」
「はい。ここのお店は、味が美味しいだけじゃなくてフェアトレードチョコレートを使っているんです。だからずっと前から食べたなと思っていて」
フェアトレードチョコレートとは、カカオの産地での児童労働に反対する取り組みから生まれた製品である。味だけでなく製品がどのようにできるかも興味がある由梨にとっては、ぜひ買いたかった商品だ。
長坂が呆れたようにため息をついた。
「だからって、私の分まで買ってこなくてよかったのに。……チョコは好きだから嬉しいんだけど」
「よかったです。ちょうどバレンタインだなって思って」
「でもうちの会社、義理チョコはずっと前に廃止されたって言ったでしょう?」
北部支社では、バレンタインに部下が上司に挨拶として送るといった儀礼的なやり取りは、全面的に廃止になり今は行われていないという。
入社一年目の由梨は、長坂から少し前に聞かされた。
「はい。ですが、個人的なやり取りまでは禁止でないと室長からお聞きまして……。私、長坂先輩にはいつもお世話になっていますから、どうしても贈りたいと思ったんです」
「どうしても贈りたいっていうのがちょっと謎だけど……。あなた私にこき使われてて嫌だとか思わないの? 私、指導がキツイってよく言われるんだけど」
頬杖をついて、怪訝な表情で彼女は言う。
その言葉に、由梨は首を横に振った。
「そんな……私は感謝しています」
本心だった。
社会人一年目の由梨には、彼女の指導が他の人と比べてどうなのかはわからない。
でも丁寧で、無駄のない指導だと思う。
おかげで少しずつではあるけれど、成長できているような気がしている。
なにより彼女が自分を他の社員と同じように指導してくれるのが嬉しかった
創業者一族今井家の出身である由梨は、ここでは腫れ物に触るような扱いだ。
仕事を教えるなんてこと、本当は誰もしたくないに違いない。
「長坂先輩が、私を他の方と同じように扱ってくださるおかげで、私仕事ができているんです。ここに来る前は、こんな風にしっかり指導してもらえると思わなかったから……。これからもよろしくお願いします」
そう言って由梨は頭を下げた。
普段はなかなか伝えられない気持ちを伝えたくて、バレンタインデーのチョコを贈りたいと思ったのだ。
由梨の言葉に、長坂が驚いたように瞬きをする。そして少し照れたように咳払いをした。
「わ、私は自分のやるべき仕事をしてるだけだけど……。でも嬉しいわ。ここのチョコレート食べてみたかったの。ランチのデザートにしよっと」
「美味しかったですよ。私、昨日のうちに、 自分の分を食べちゃいました」
「そうなんだ。じゃあそれは、誰の分? 社長?」
長坂が、由梨の手元にある残りのふたつの包みを指し示した。
「いえ、父……社長は、甘いものは食べませんから。これは室長と副社長の分です」
北部支社には、役員は五人いるが、そのうち三人は本社の人間で普段は東京にいてこちらへは出社しない。
北部支社にいるのは社長である由梨の父と、副社長である加賀だけだ。
父を由梨が、加賀を室長である蜂須賀と長坂が担当している。
というわけで、由梨は残りのふたりにも長坂と同じものを用意してきたというわけだ。
加賀とはあまり話をしないが、室長の蜂須賀には、長坂と同じくらい世話になっている。
「室長と……殿に……か」
長坂が難しい表情になった。
「ダメだったでしょうか? 室長にも大変お世話になっていますし……」
「いや、室長はいいのよ。ただ、殿は女性社員からのチョコレートは……」
長坂がそう言いかけた時。
秘書室のドアが開いて、加賀と蜂須賀が入ってきた。
午前中の法人営業部の会議からの戻ってきたのだ。
「お疲れさまです」
由梨は声をかける。
加賀が「お疲れ」と答えた。
「副社長、午後からの外出までお昼休憩です。お昼ごはんの準備は整えてありますから召し上がってください」
長坂の言葉に彼は頷く。
「ありがとう」
加賀と蜂須賀、ふたりともが休憩時間に入ったことを確認して、由梨は再び包みを手に立ち上がった。
「室長、副社長」
副社長室へ戻ろうとしていたふたりが足を止めて由梨を見た。
まず由梨は手前の蜂須賀に向かってひとつ目を差し出す。
「室長、よかったらこれ……」
「ああ」
蜂須賀が、にっこりと笑った。
「もしかしてチョコレートかな?」
「はい。いつもお世話になっています。これからもよろしくお願いします」
「ありがとう。いただくよ」
次に由梨は、加賀を見る。
「副社長も、よかったら」
そう言って包みを差し出すと、彼は少し驚いたように目を見開いた。
すぐには受け取らず、包みをジッと見つめたまま、沈黙している。
由梨は首を傾げた。
「あの……チョコレートはお嫌いですか?」
恐る恐る尋ねると、彼は「いや」と言って首を振る。
「……ありがとう」
少し掠れた声でそう言って、包みを受け取った。そして副社長室へ戻っていく。
蜂須賀が、なにやら意味深な笑みを浮かべながら彼の後に続いた。
これでよし、と思い、由梨が自席に戻ろうとすると。
「……殿はチョコレートは受け取らないはずだけど」
長坂がなにかを呟いた。
内容が聞き取れず、由梨は首を傾げる。
「え? どうかされましたか?」
けれど彼女は、ニンマリ笑って首を振るだけだった。
「なんでもない。……なるほどね。面白くなりそうだわ」
まったく意味不明な彼女の言葉に、由梨はまた首を傾げた。
由梨は時間を確認して、パソコンを一旦ログオフする。昼休憩だ。
向かいの席に目をやると、先輩の長坂も肩に手を置いて首を回している。
どうやら彼女も休憩に入ったようだ。
由梨は机の下に置いてあるカバンからラッピングされた包みをいくつか出す。そのうちのひとつを手に立ち上がる。
「長坂先輩」
声をかけると、彼女は首を回すのをやめて由梨を見た。
「なに?」
「あの、これ……どうぞ。チョコレートです」
すると彼女は驚いたように包みと由梨を交互に見る。
「もしかして、バレンタインの?」
「はい」
「……ありがとう」
受け取ってくれたことにホッとして、由梨が席に戻ると長坂が包みを見て口を開いた。
「これ、この間丸大百貨店に初出店した店のやつね。行列ができてて買えないって同僚が言ってたけど、……わざわざ並んだの?」
「はい。ここのお店は、味が美味しいだけじゃなくてフェアトレードチョコレートを使っているんです。だからずっと前から食べたなと思っていて」
フェアトレードチョコレートとは、カカオの産地での児童労働に反対する取り組みから生まれた製品である。味だけでなく製品がどのようにできるかも興味がある由梨にとっては、ぜひ買いたかった商品だ。
長坂が呆れたようにため息をついた。
「だからって、私の分まで買ってこなくてよかったのに。……チョコは好きだから嬉しいんだけど」
「よかったです。ちょうどバレンタインだなって思って」
「でもうちの会社、義理チョコはずっと前に廃止されたって言ったでしょう?」
北部支社では、バレンタインに部下が上司に挨拶として送るといった儀礼的なやり取りは、全面的に廃止になり今は行われていないという。
入社一年目の由梨は、長坂から少し前に聞かされた。
「はい。ですが、個人的なやり取りまでは禁止でないと室長からお聞きまして……。私、長坂先輩にはいつもお世話になっていますから、どうしても贈りたいと思ったんです」
「どうしても贈りたいっていうのがちょっと謎だけど……。あなた私にこき使われてて嫌だとか思わないの? 私、指導がキツイってよく言われるんだけど」
頬杖をついて、怪訝な表情で彼女は言う。
その言葉に、由梨は首を横に振った。
「そんな……私は感謝しています」
本心だった。
社会人一年目の由梨には、彼女の指導が他の人と比べてどうなのかはわからない。
でも丁寧で、無駄のない指導だと思う。
おかげで少しずつではあるけれど、成長できているような気がしている。
なにより彼女が自分を他の社員と同じように指導してくれるのが嬉しかった
創業者一族今井家の出身である由梨は、ここでは腫れ物に触るような扱いだ。
仕事を教えるなんてこと、本当は誰もしたくないに違いない。
「長坂先輩が、私を他の方と同じように扱ってくださるおかげで、私仕事ができているんです。ここに来る前は、こんな風にしっかり指導してもらえると思わなかったから……。これからもよろしくお願いします」
そう言って由梨は頭を下げた。
普段はなかなか伝えられない気持ちを伝えたくて、バレンタインデーのチョコを贈りたいと思ったのだ。
由梨の言葉に、長坂が驚いたように瞬きをする。そして少し照れたように咳払いをした。
「わ、私は自分のやるべき仕事をしてるだけだけど……。でも嬉しいわ。ここのチョコレート食べてみたかったの。ランチのデザートにしよっと」
「美味しかったですよ。私、昨日のうちに、 自分の分を食べちゃいました」
「そうなんだ。じゃあそれは、誰の分? 社長?」
長坂が、由梨の手元にある残りのふたつの包みを指し示した。
「いえ、父……社長は、甘いものは食べませんから。これは室長と副社長の分です」
北部支社には、役員は五人いるが、そのうち三人は本社の人間で普段は東京にいてこちらへは出社しない。
北部支社にいるのは社長である由梨の父と、副社長である加賀だけだ。
父を由梨が、加賀を室長である蜂須賀と長坂が担当している。
というわけで、由梨は残りのふたりにも長坂と同じものを用意してきたというわけだ。
加賀とはあまり話をしないが、室長の蜂須賀には、長坂と同じくらい世話になっている。
「室長と……殿に……か」
長坂が難しい表情になった。
「ダメだったでしょうか? 室長にも大変お世話になっていますし……」
「いや、室長はいいのよ。ただ、殿は女性社員からのチョコレートは……」
長坂がそう言いかけた時。
秘書室のドアが開いて、加賀と蜂須賀が入ってきた。
午前中の法人営業部の会議からの戻ってきたのだ。
「お疲れさまです」
由梨は声をかける。
加賀が「お疲れ」と答えた。
「副社長、午後からの外出までお昼休憩です。お昼ごはんの準備は整えてありますから召し上がってください」
長坂の言葉に彼は頷く。
「ありがとう」
加賀と蜂須賀、ふたりともが休憩時間に入ったことを確認して、由梨は再び包みを手に立ち上がった。
「室長、副社長」
副社長室へ戻ろうとしていたふたりが足を止めて由梨を見た。
まず由梨は手前の蜂須賀に向かってひとつ目を差し出す。
「室長、よかったらこれ……」
「ああ」
蜂須賀が、にっこりと笑った。
「もしかしてチョコレートかな?」
「はい。いつもお世話になっています。これからもよろしくお願いします」
「ありがとう。いただくよ」
次に由梨は、加賀を見る。
「副社長も、よかったら」
そう言って包みを差し出すと、彼は少し驚いたように目を見開いた。
すぐには受け取らず、包みをジッと見つめたまま、沈黙している。
由梨は首を傾げた。
「あの……チョコレートはお嫌いですか?」
恐る恐る尋ねると、彼は「いや」と言って首を振る。
「……ありがとう」
少し掠れた声でそう言って、包みを受け取った。そして副社長室へ戻っていく。
蜂須賀が、なにやら意味深な笑みを浮かべながら彼の後に続いた。
これでよし、と思い、由梨が自席に戻ろうとすると。
「……殿はチョコレートは受け取らないはずだけど」
長坂がなにかを呟いた。
内容が聞き取れず、由梨は首を傾げる。
「え? どうかされましたか?」
けれど彼女は、ニンマリ笑って首を振るだけだった。
「なんでもない。……なるほどね。面白くなりそうだわ」
まったく意味不明な彼女の言葉に、由梨はまた首を傾げた。
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