金六花恋ひ物語

1.色恋沙汰

1.色恋沙汰
 
 
 翌朝、目が覚めると隣に居るはずの雪乃の姿はなかった。ムクっと起き上がり、目を擦りながら、悠一朗は寝ぼけ頭で昨日の出来事を思い出す…。
 
 (らしくなかったな…)
 
 そんな一言を心の中で呟きながら、サッとかけ布団を畳み直して、寝衣のまま寝室を出た。
 
 リビングに入ると、ソファーに座って寛ぎながら珈琲を啜っている雪乃がいた。
 
 「あっ。悠一朗さん、おはようございます」
 
 「おはよう」
 
 「あれからよく眠れましたか?」
 
 「うん。雪乃は?」
 
 「わ、私も…よく眠れました」
 
 手を握って寝たことは覚えている。安心したせいかすぐに瞼が落ち、夢も見なかった。こうした安眠が続くのであれば、雪乃と寝室を共にしてもいいのではないかとぼんやり考えていると、雪乃が悠一朗の分の珈琲をキッチンから持ってくる。
 
 「悠一朗さん、珈琲どうぞ。温かいうちに」
 
 「あぁ…ありがとう。…雪乃、あのさ…」
 
 ん?と雪乃は首を横に傾け、悠一朗の顔を優しく撫でるように見る。
 
 「これから毎晩、一緒に寝ないか?」
 
 「……」
 
 驚いたように大きく見開く雪乃の目を見て、悠一朗は早急すぎたか…、と内心思った。やっぱりもう少し時間をかけるべきだと「いや…」と言い直そうした刹那、雪乃から思わぬ返答が返ってきた。
 
 「いい…ですよ」
 
 雪乃の気恥ずかしさを含んだ優しい眼差しがそこに加わり、悠一朗は一瞬固まった。自分から言っておいて、何でこんなにも戸惑うのか。初めての感覚だった。 悠一朗は敢えて平常心を装い「じゃ、今晩から」と言って、湯気の立っている珈琲を啜った。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 悠一朗を仕事へ送り出し、雪乃はベッドリネンを洗濯して、離れの家の掃除に取りかかった。今晩から一緒に夜を共にする。少しでも悠一朗が居心地よく過ごせるよう、雪乃は寝室を念入りに整えた。
 
 (昨日の悠一朗さん…少し様子が変だったな…。悲しそうな顔をしていたような…)
 
 雪乃はまだ、悠一朗のことを深く知れていない。人の過去を詮索したいとは思わないが、昨晩の悲しい顔の原因は何だったのだろうと、雪乃は少し気になった。あまり多くを話そうとしない悠一朗に、何があったのか聞いてもいいだろうか…、それとも何も言わずこのままの方がいいだろうか…、そんな考えを巡らせ、寝室の窓から見える青色の空を眺めた。
 
 夕方、悠一朗から雪乃のスマホに一通のLINEが届く。
 
 〈雪乃ごめん。今日少し飲みに行ってくる。帰りは遅くなりそうだから、先に寝てて〉
 
 念入りに整えたベッドリネンも、念入りに掃除した部屋も、今日は無念で終わりそうだ…、と雪乃は少し残念に思いながら悠一朗へ返事を返す。
 
 〈大丈夫ですよ。お付き合いもあると思うので、私のことはお気になさらず〉
 
 本心と裏腹な返事を返した途端、何だか少し寂しい気持ちになった。雪乃は少しずつ、悠一朗に心を寄せているのだと気づく。帰ってこない不安がある訳ではない。でも、今晩から一緒に寝ることを、雪乃は必要以上に楽しみにしていたのだった…。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 悠一朗は、いつものメンバーである藤川恭士と佐久間典臣と飲屋街の横町で呑んでいた。
 この横町は、夜の店や居酒屋が立ち並び、深夜を過ぎてもサラリーマンや若者が酒や男女を求めて、賑わいを見せている。悠一朗と典臣は、横町で呑むことを嫌がっていたが、恭士が久しぶりに行きたいと言うので付き合った。
 ある一画にある新しくできた焼き鳥屋に入り、三人は乾杯のジョッキを交わした。それぞれが各々に食べたいものを頼み、いつもと変わらない飲み会が始まった。
 
 「悠一朗、結婚生活どう?」
 
 話題はもちろん、悠一朗の新婚生活。全員がビールを勢いよく飲み終えると、典臣がニヤニヤと悠一朗に尋ねた。
 
 「どうって…別に何も」
 
 「何だよ何もって。あんだろ何か」
 
 恭士が薄笑いをしながら、塩対応の悠一朗の肩を突く。
 
 「本当に何もねーんだって…。まだ…」
 
 「まだ?って…えっ?まさかまだヤッてねーの?」
 
 「何でそっちにいくんだよ、お前は…」
 
 頭を抑えながら「はー」と溜め息をつき、悠一朗は典臣の下品な発言に辟易しながらビールを飲み干した。恭士も典臣にデコピンを喰らわせ「でも…」と続けた。
 
 「お前らしくねーじゃん」
 
 (らしくない。それは自分でもよく分かっている)
 
 「だよなぁ?こんなにもお前が慎重になるなんて。やっぱり奥さんは別格なんやなぁ〜。イテテテ…」
 
 典臣は、おしぼりでデコピンを喰らったおでこを冷やしながら話した。
 
 残念ながら二人が聞きたかった悠一朗の新婚生活の話はあまり長く続かず、他の二人のプライベートも進展はないため、話は仕事にシフトしていった。
 
 数時間が経過し、そろそろ「帰ろうか」となっていた矢先、店の玄関から聞き覚えのある女の声が聞こえてきた。
 
 由真だ…。
 
 悠一朗は顔を顰め、顔を隠そうと俯いたが遅かった。
 由真の悠一朗センサーが働いたのか、悠一朗の顔を瞬時に見つけ、由真はカウンターに座っていた悠一朗へ勢いよく抱きついた。
 
 「悠ちゃあーーーーーーん!会いたかったよぉ〜」
 
 「おい…やめろ、由真。離れろって…」
 
 悠一朗は由真の両腕を取り払い、酒臭い由真を冷たく遇らう。由真はムッと頬を膨らませ「何でそんな嫌がるのぉー」と嘆いた。
 
 「由真、誰?そのイケメン。知り合い?」
 
 由真と一緒にいた女友達が尋ねると、由真は嬉しそうに「私の彼氏!」と誤解を生むようなことを口走った。
 
 「違う!違う!こいつ、奥さんいるから!」
 
 酔っ払っていた典臣が全力で否定する。変な空気になることを予想していた恭士は、思わず額を隠しながら溜め息を漏らした。その言葉を聞いた由真は顔面蒼白になって硬直し…「どういうこと?」と泣きそうに悠一朗へ尋ねた。
 
 「…そういうことだから」
 
 悠一朗は、素っ気なく答えた。
 
 「…は?忘れられない人がいるって言ってたじゃん。だから、誰とも付き合わないし、結婚しないって言ってたじゃん。私はずっと、悠ちゃんが好きだったのに…。悠ちゃんが振り向いてくれるまで私は待ってたのに、何それ。誰なの?ねぇ?誰なの?」
 
 由真の声はエスカレートしていき、群衆たちの冷めた視線が突き刺さる。
 
 「由真、酔いすぎ…。とりあえず店出よう」
 
 恭士と典臣が由真を連れ出し、悠一朗は全員分の会計を済ませ、どうしたらいいか分からないまま突っ立っていた女友達と一緒に店の外へ出た。由真を送って欲しいと悠一朗は女友達に頼み、近くを通ったタクシーを停めたのだが、由真は一向に言うことを聞かない。
 
 「やだー。まだ話終わってないー!」
 
 「だから、悠一朗はもう嫁さんいんの!もうタクシーのおいちゃん困っとるし、友達も待っとるんやで早く乗れって…」
 
 完全に酔いの冷めた恭士が、無理矢理タクシーに乗せようと由真の腕を引っ張るが、由真はそれを全力で振り払う。
 
 「ねぇ、由真ー。早く帰ろー。私が家まで送るから」
 
 女友達も、やれやれと言わんばかりに呆れていた。そんな女友達のことも気に留めず、由真は遂に泣き出した。
 
 「悠ちゃん…何でいつもそうなん?何でいつも、私から逃げるん?私のこと…そんな嫌いやったん?」
 
 始まってしまった…、と全員が困り果てた。
 典臣は、待たせていたタクシーの運転手に女友達を乗せて進むよう伝え、女友達を先に帰らせた。それを見ていた恭士は悠一朗の肩をそっと叩き、悠一朗の耳元で「俺らも先に帰るから二人で話せ…。んで、終わらせろ」と言って、典臣を連れて茶屋町へ帰っていった。
 
 置き去りにされた悠一朗は、スマホに表示された時刻を見る。時刻は、23時を回ったところだった。早く帰って、雪乃と寝たい。さっさと由真を送って家に帰ると決め、泣きべそをかいている由真と一緒に、近くを通ったタクシーに乗り込んだ。
 
 
 「ねぇっ。ひっ。誰なのっ…相手は…」
 
 
 由真はヒクヒクと泣きながら、悠一朗に尋ねる。悠一朗は隠す必要はないと思い、同じ茶屋町の区画にある長谷川庵の一人娘を妻にしたと伝えた。由真は相手を聞いて、自分は敵わないと分かったのか、急に黙り込んだ。
 二人の乗ったタクシーは、由真のアパートのエントランス前で止まり、左側のドアが開いた。
 
 「じゃーな。俺はここまでしか送れねーから」
 
 「歩けない…」
 
 「は?」
 
 「玄関の前まで送って…」
 
 タクシーの運転手は「待ってますからどうぞ」と悠一朗に伝え、悠一朗は仕方なくタクシーから降りて、由真を玄関の前まで連れていった。
 
 「鍵どこ?」
 
 「ここ…」
 
 悠一朗は、由真の持っていた鞄の中から鍵を取り出し、開いたドアを左手で支えて、由真を玄関の中へ入れた。
 
 「じゃーな。俺はもう帰るから」
 
 そう言い残してドアを閉めようとした瞬間、由真に思いっきり服を引っ張られ、由真に口付けをされた。それと同時に、股間を執拗に触られ、悠一朗は由真を思いっきり廊下へ突き飛ばした。
 
 「…っ。やめろ。何すんだよ…」
 
 「これで最後にするから!。お願い…私とシて…」
 
 由真は床に突っ伏しながらも急いで服を脱ぎ、着けていた派手な下着も取り外して、上半身を露わにする。男であれば、すぐに反応してしまうような大きなお椀型の胸が目に入っても、悠一朗は何一つ反応せず、嫌悪感だけが、沸々と湧き上がってきた。
 
 「お前のこういうところだよ。俺がお前を好きになれない理由は。独りよがりで、わがままで、俺はそういう女が大っ嫌いなんだ。悪いけど、俺はもう結婚したんだ。頼むから、もう付き纏わないでくれ…」
 
 悠一朗はそう言い残し、哀れな姿で泣いている由真をそのままにして、玄関のドアをバタンと閉めた。悠一朗は駆け足で、待たせていたタクシーに乗り込み帰路を急ぐ。
 
 (はぁ…たく。あーいう女は本当に…。雪乃に悪いことしちまったな…)
 
 悠一朗の気分はどんどん落ちていく。さっきの出来事を、もし他の誰かに見られていたらと思ったら背筋が凍る…。例え自分の意思ではなかったとしても、妻が居るにも関わらず、他の女性と口付けをしてしまったことは挽回の余地もない。何度も吐き出す溜め息が後部座席を埋め尽くす…。
 
 家に近づけば近づく程、じわじわと押し寄せる恐ろしい罪悪感が、悠一朗を襲った。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 雪乃は早めに寝る準備を整え、寝室のベッドの上で、スマホをいじっていた。
 
 (悠一朗さん、何時に帰ってくるんだろ…。帰ってきたら、横で一緒に寝てくれるかな…)
 
 そんな淡い期待を膨らませながらスマホをいじっていると、親友の綾美から一通のLINEが届いた。
 
 〈雪乃、起きてる?ごめん。こんな時間に。あのさ…、斗真からこんな写真が送られてきたんやけど…。悠一朗さん、女性と二人でタクシー乗ってどっか行ったみたい。ごめん。言わん方がいいと思ったんやけど…。写真見ちゃったから…〉
 
 絵文字のない冷たい文章と、週刊誌のような写真が一方的に表示された。そういうツールだ…仕方がない。
 雪乃は恐る恐る目線を写真へ移す。
 
 すると、そこに写っていたのは、泣いている女性の手を引っ張る悠一朗の姿だった…。
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