金六花恋ひ物語

2.情動

2.情動
 
 
 雪乃は、綾美に「心配かけてごめん」と簡単な返事を返し、見ていたスマホを胸元に伏せた。
 恋愛から始まった結婚ではないし、女の一人や二人いてもおかしくない…。そんなことは百も承知だと、どこかで腹を括っていたつもりだったが、いざこういうのを見てしまうと、ぎゅっと胸が締め付けられる。
 
 行き場のない感情を抱いたまま、部屋の照明を落とし、雪乃は薄手の掛け布団に包まった。
 静かに目を瞑っていると、玄関の扉の開く音が廊下から聞こえてくる。
 悠一朗が帰ってきた。
 こちらに向かってくる様子はなく、風呂場へ向かったようだ。
 
 雪乃は、平然を装うべきか、正直に話してみるか、悩み始める…。どう接することが正解なのか、悩めば悩むほど分からなくなった。性格上、激しく問いただすことは出来そうにない。ここはぐっと堪え、様子を見るのが賢い妻なのかもしれないと、雪乃は思考を一旦止めた。目を瞑り、寝たふりをしていると、黒色の寝間着姿に着替えた悠一朗が、寝室へ入ってきた。
 
 「雪乃…寝たか?」
 
 「…おかえりなさい」
 
 「ごめん、遅くなって」
 
 「いえ…」
 
 遅くまでお疲れさまでしたね…、と普段なら言えるのだが、言葉が喉の奥でつっかえて、優しい言葉をかけられなかった。
 
 「一緒に寝てもいいか…?」
 
 優しくて、何の不安も感じさせない悠一朗の優しい口調に、全てが嘘なんじゃないかと思うぐらい惑わされる。
 
 (一緒に寝たい…。寝て、悠一朗さんの温もりを感じたい…。でも…)
 
 「今日は、別々で…寝ましょう…。ごめんなさい…」
 
 雪乃の言葉に、悠一朗は悲しそうな顔を浮かべた。 
 「怒ってる…のか?」と突っ立ったまま言う悠一朗に、雪乃は首を振って否定した。
 
 「じゃ…どうして?」
 
 「つ、月のものがまだ終わってなくて…、そ、その…悠一朗さんと一緒に寝たら、そういう気分になっちゃうと思って…。だから…、今日は…」
 
 「昨日、一緒に寝たのに?」
 
 雪乃は、躊躇いながらも「とにかく今日は…」と嫌がるように否定した。そんな雪乃を不思議そうに見つめ、悠一朗は「分かった…」と言って寝室を出ていった。
 
 自分は悪くないのに、まるで自分が悪いことをしたかのような罪悪感に苛まれる。
 
 (こんなの…送ってこなくてもいいのに…。何も知らなくていいことだってあるんだから…)
 
 雪乃は、綾美の悪気のない親切心に、今思っている全ての感情をぶつけてしまった…。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 あれから数日が経ち、毎晩一緒に寝るという約束は未だ果たせず、離れの家では必要最低限の会話しかできないでいた。
 連日、悠一朗は遅くまで酒造に籠り、酷く疲れている様子だった。目の下にはクマが広がり、肌も荒れている。
 久しぶりに母屋で一緒に朝食をとったあと、雪乃は悠一朗の様子が少し変だと気づいた。何も言わずに酒造へ向かう悠一朗を後ろから追いかけ、雪乃は慌てて声をかけた。
 
 「悠一朗さん!体調大丈夫ですか…」
 
 「…心配ないよ」
 
 「熱でもあるんじゃ…」
 
 「…大丈夫。行ってくる」
 
 悠一朗は無表情のまま向きを変えて、酒造へ向かっていった。雪乃はどうすることもできず、ただ後ろ姿を心細く見つめるしかなかった。
 
 母屋に戻った雪乃は、お手伝いの凛子に悠一朗の体調があまりよくないことを伝えた。
 
 「やっぱり…。ここ最近、遅くまで酒造の電気がついてましたから…」
 
 「今日は私が、離れで悠一朗さんの食事を作ってもいいですか?」
 
 凛子は驚いた顔をしたが、すぐに満面の笑みに変わり「もちろんです!」と雪乃に伝えた。
 
 雪乃は簡単に身支度を整え、久しぶりに近くのスーパーへ出掛けた。長谷川庵にいた頃は、よく買い出しに行っていたが、田上家に嫁いでからはめっきり行かなくなり、スーパーの建物を見ただけで懐かしさを覚えた。雪乃は店内に入り、野菜コーナーを見たり、肉や魚を眺めては何を作ろうか悩み始める…。
 
 (雑炊なら食べられるかな?それとも悠一朗さんの好きな物…。悠一朗さんの好きな物って何なんだろ…)
 
 夫の好きな食べ物すら分からないなんて、と思わず調味料のコーナーで立ち止まってしまった。悠一朗のことを知るのがどこか怖くて、ずっと逃げていた。好きなものを聞くことぐらいできたはずなのに。
 雪乃は考えるのをやめ、自分が体調を崩した時に母が作ってくれた蟹雑炊を作ろうと、缶詰コーナーに移動した。蟹の切り身が入った缶詰と、カットされた果物の詰め合わせを一緒に買って、雪乃はスーパーを後にした。
 
 荷物を抱え、田上酒造に繋がる路地裏へ入っていくと、一人の女性が田上家の門の前で立っているのが見えた。
 
 (お客様かな…)
 
 雪乃は少し早歩きで、門の方へ向かう。
 雪乃の姿に気づいた女性も、雪乃の方へ近づいてくる。少し怖くなった雪乃は歩幅を縮め、様子を伺うように軽く会釈をしたが、女性は顔色一つ変えず、真顔のまま雪乃の前に立ち塞がった。
 
 「あんたが、悠ちゃんと結婚したって人?」
 
 「えっ?あ…はい。長谷川雪乃と申します…」
 
 威圧的な態度の女性を煽らないよう、雪乃は敢えて旧姓の名前で名乗った。
 
 「あ、あの…。悠一朗さんのお知り合いの方でしょうか?」
 
 「知り合いも何も、同級生!」
 
 恐らくこの女性も、悠一朗に好意を持っていた女性の一人なのだと雪乃は察した。
 
 「悠一朗さんにご用があれば、お呼びしましょうか?」
 
 「…悠ちゃん、ずっと好きな人がいたんだよ。だから、誰とも付き合わないし、誰とも結婚しないって言ってたのに、急に長谷川庵のあなたと結婚した。何?政略?」
 
 「そ、そういうのではないですが…」
 
 (政略と言えば政略だけど…。でも、親同士が決めたお見合いですなんて、今は言わない方がいい…)
 
 「あんた、由来の「由」に妃の「妃」と書いて由妃っていうの?悠ちゃんがずっと片思いしてた人も『ゆき』っていうんだよね」
 
 知らなくてもいいことを一方的に知ってしまい、胸を抉られるような衝撃が走った。二人の間に微妙な沈黙が流れる。
 
 「ねぇ?どうなの?」
 
 「わ、私では…ありません…」
 
 雪乃は俯きながら否定した。
 女性は勝ち誇ったような顔つきに変わり、俯く雪乃に向かって、嫌味を吐き捨てた。
 
 「なら、悠ちゃんはあなたが好きで結婚した訳じゃないってことよね?どうせ、上手くいってないんでしょ?悠ちゃんは絶対あなたを好きにならないし、あなたが妻だなんて誰も認めない!」
 
 雪乃は返す言葉を失い、動くこともできず、ただ立ち尽くすしかなかった。雪乃はふと思い出した。目の前にいる女性は、先日綾美から送られてきた画像の女性だ…。
 感情的にならない雪乃だったが、珍しく胸の奥から怒りのようなものが沸々と湧き上がってくるのを感じ、目を閉じながらゆっくり息を吸い込んだ。そしてゆっくり息を吐きながら目を据わらせ、毅然とした態度で口を開いた。
 
 「お話ししていただき、ありがとうございます。上手くいくよう、私なりに努めてまいります。それでは、わたくしはこれで失礼いたします」
 
 同じ土俵に立ってはならない。雪乃はそう思いながら軽く頭を下げ、女性の横を通り過ぎて田上家の門をくぐった。離れの家の鍵を開け、リビングに入り、買ってきた食材を冷蔵庫に入れる。音が鳴るぐらい冷蔵庫の扉を勢いよく閉め、しばらくの間取手を力強く握りしめていた。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 「若旦那…大丈夫っすか?もう帰られた方がええんとちゃいます?」
 
 「無理しすぎっすよ…毎日」
 
 「わしら、後はやっとくんで。たまには早よ帰って、ゆっくり休んでくださいな」
 
 酒造場にいた倉田をはじめ、蔵人たちが揃って悠一朗を心配していた。あまりの疲れに、高熱とめまいに襲われ悠一朗はフラフラだった。「申し訳ない…。今日は帰らせてもらう…」と言い残し、重い身体を引きずって、悠一朗は早めに離れの家へ帰宅した。
 
 リビングに入ると、キッチンから雑炊の良い香りが漂ってくる。ベージュのエプロン姿でキッチンに立っている雪乃を見て、悠一朗は少しだけ顔を緩ませた。そんな姿に気づいた雪乃は、悠一朗に向かって両手を差し出しながら、慌てて駆け寄った。
 
 「ゆ、悠一朗さん!ちょっと大丈夫ですか?」
 
 「ただいま…」
 
 悠一朗は安心して気が抜けたせいか、雪乃に正面からもたれかかった。雪乃も悠一朗を支えるように両腕を悠一朗の背中にまわし、片方の手で背中を摩った。「とりあえず、ソファーに座りましょう」と雪乃に誘導され、悠一朗はゆっくりソファーに腰を下ろす。
 
 「もう、無理しすぎですよ…。凄い熱じゃないですか…」
 
 「…大丈夫だ」
 
 「どこがですかっ?ほら、こんなに…」
 
 悠一朗のトロンとした目が見開く。立ったままの雪乃に前髪を掻き上げられ、熱を測るように優しくおでこを当てられた。いつも以上に積極的な雪乃に、悠一朗はただただ驚くしかなかったが、嬉しさも同時に込み上げた。
 雪乃のおでこがゆっくり離れ、悠一朗は視線に導かれるまま、雪乃を見上げる…。
 雪乃は何故か、怒って今にも泣き出しそうな顔をして、優しく悠一朗の両頬に両手を添えた。
 
 「悠一朗さんは、私の大切な人なので…。だからもう…、無理はしないでください…」
 
 「…うん」
 
 「絶対ですよ…」
 
 「…うん。分かっ…」
 
 雪乃の柔らかい唇がすっと落ちてきて、悠一朗は最後の語尾を言い終われないまま口を塞がれた。高熱が吹き飛ぶぐらい更に身体が熱くなるのを感じ、鼻から漏れる吐息が恥ずかしいぐらい荒くなった。
 
 「うつるぞ…」
 
 「いいです…」
 
 雪乃の薄くて柔らかい唇が、何度も向きを変えながら覆い被さってくる。悠一朗も負けじと熱い手で、雪乃の身体をぐいっと引き寄せ、自分の上に跨らせた。
 熱さと興奮でとろけそうな顔をした二人は、更に互いの舌先を激しく絡め、今までにない程の長い口づけを交わした。
< 13 / 17 >

この作品をシェア

pagetop