金六花恋ひ物語

3.金魚柄の箱

3.金魚柄の箱
 
 
 「はい。悠一朗さん。今日はここまでです」
 
 雪乃の潤った唇が優しく離れ、少しからかいを含めた笑みを見せて、雪乃は悠一朗から離れた。
 悠一朗は、何でこんな時に自分は高熱なんだ!と、悔しさを隠すように右腕で両目を覆って、ソファーの上で項垂れた。
 
 「もうすぐ、雑炊できますけど食べられますか?」
 
 陽気に尋ねてくる雪乃に、悠一朗は苦虫を噛み潰したような声で「うん…」と返事をする。
 
 (何かあったんだろうか…)
 
 キッチンで鍋掴みをはめて「熱っ」と言っている雪乃を見ながら、ぼんやりと思う。
 悠一朗は、いつもと違う雪乃の様子を伺いながら、テーブルの上に置かれた蟹雑炊をすすった。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 日差しの強い暑さが日に日に増し、長谷川庵ではこの季節ならではの西瓜羊羹が店頭に並び始める。多く作ったからと言って、それを持って久しぶりに母•由美子が田上家へ顔を出した。
 
 「久しぶり、雪乃。元気?」
 
 「うん」
 
 「なんか、浮かない顔ね」
 
 「…そんなことないよ」
 
 田上家を良く思っていない四区の住民や、悠一朗につきまとう女性たちの嫌がらせが、日に日に雪乃を苦しめていた。いつも悠一朗のいない所でそれは起き、一人で外を歩けばヒソヒソと嫌味を語られ、煙たがられるような視線を向けられる。挨拶をしても平気で無視をされ、先日は玄関の水やりだと言って、着物の裾に水をかけられた。それに、悠一朗は未だに女性と夜な夜な遊んでいるだの、家に帰っていないだの、変な噂も流れ始め、悠一朗はそれを全力で否定しているが、雪乃の心は晴れないままだった。
 
 「凄いお花たちね」
 
 「うん。毎日何かしら、結婚のお祝いが届くの。酒造の顧客様だったり、お父様のお知り合いの方からとか…」
 
 玄関先に並ぶ花たちを見て、由美子は「まぁ〜」と嬉しそうに目を輝かせた。雪乃は毎度、手書きで御礼状を書かなければならず、そんな母の顔を見て少し苦笑いを浮かべた。
 
 「まぁ〜、雪さんのお母様。よくおいでくださいました。どうぞ、こちらへ」
 
 「娘がいつもお世話になっておりますぅ〜」
 
 凛子とウメの出迎えに、母は何度も頭も下げながら普段通りの挨拶を交わし、開放感のあるリビングへ移動した。
 
 母屋では、お手伝いの二人と一緒に軽くお茶を愉しみ、連日届いている結婚祝いの品や花などを母に分け、母は一杯の冷たいお茶を飲んで帰って行った。
 後片付けがひと段落つき、凛子とウメと何気ない会話をしていると、母から一通のラインが届いた。
 
 〈雪、あまりにも辛かったらたまには帰ってきてもいいからね。よくない噂はこっちにも届いているけど、悠一朗さんが先日、長谷川庵に顔を出してくれて「ご心配をおかけして申し訳ないです」って言いに来てくれたのよ。「決して雪乃を悲しませることはしていません」って言ってたから、私は悠一朗さんを信じるわ。嫌がらせも、そのうち消えるはず。長谷川庵に立っていた時のように、ちゃんと笑顔でいなさいね〉
 
 雪乃は後で返事をしようと、一旦既読スルーをした。
 
 (分かってる…。悠一朗さんが夜な夜な家を出て行くなんてことは最近ないし、女性と連絡を取り合ってる素振りもないし、分かってる…分かってるんだけど…)
 
 綾美から送られてきた写真のことや、『由妃さん』という存在がどうしても雪乃の心につっかえていた。悠一朗の相手は自分じゃない方が良かったのではないか。ここ最近の雪乃は、自分自身の存在を否定してしまう。悠一朗が熱を出した日、雪乃は怒りの感情を押し殺して、らしくない行動をした。蕩けるような口づけを何度も重ねたのに、その後は悲しさや虚しさに変わって何も埋まらなかった。
 
 でも…。
 
 雪乃は、悠一朗のことが好きなのだと、好きになってしまったのだと…、自分の気持ちに気づいた瞬間でもあった。
 
 「さん?雪さん?」
 
 「…は、はい!」
 
 ウメの呼んでいる声でハッと我に帰り、雪乃は不思議そうに立っているウメの顔を見る。
 
 「雪さん、大丈夫ですか?あの〜、こちらなんですけど…、雪さん宛に差出人の書かれていない箱が花と一緒に届いてたんですが、開けられますか?」
 
 「箱?そちらのですか?誰からだろう…」
 
 雪乃はウメに礼を言いながら、金魚柄の箱を受け取り、封を開けた。
 
 箱の中には更に白い発泡スチロールの箱が入っていて、その上に一枚の手紙が乗っていた。
 
 【夫婦生活が早く破綻するといいですね】
 
 「……」
 
 雪乃は黙って手紙を横に置き、白い発泡スチロールを恐る恐る開けた。するとそこには、とんでもない悪臭を漂わせた二匹の金魚の死骸が入っていた。
 
 「何ですか!これは!誰がこんなものを!雪さん、大丈夫ですよ!私がすぐに処分いたしますから!」
 
 近くにいた凛子が駆け寄り、ウメは震えている雪乃の背中を摩りながら「大丈夫。大丈夫。私たちがいますからね」と励ました。
 
 「これはもう、ぼっちゃんも然り、旦那様にもご報告します!もう本当に腹ただしい!雪さんの何が気に食わないのよ!」
 
 凛子は珍しく血相を変えて怒っていた。
 雪乃は目から大粒の涙を床にこぼし、か細い声で呟く。
 
 「この界隈の皆さんは…、私の…何が気に入らないんでしょう…。そんなに、私が嫌なんですか…。悠一朗さんには、どんな女性が良かったんでしょう…。もう、うんざりです!今日は実家へ帰らせてください!」
 
 「ちょっ、雪さんお待ちを…」
 
 雪乃は勢いよく母屋のリビングを出て行き、離れへ向かった。ウメが雪乃の後を追いかけ、凛子は悠一朗のいる酒造へ駆け出して行った。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 「おい!雪乃!待てって…」
 
 「離してください…」
 
 荷物を抱えて玄関から出て行こうとする雪乃の腕を掴んで、悠一朗は精一杯止めていた。慌てふためく凛子から、ことの詳細を聞いて、悠一朗も仕事を放り出して雪乃の元へ駆けつけた。
 
 「一旦、落ち着いて話そう」
 
 「嫌です。離してください…」
 
 「そんなこと言うなよ…」
 
 雪乃の顔は涙で酷く腫れ上がり、結んでいた髪も崩れ、酷い有り様だった。こんな姿で実家へ帰ったら、父の順一は黙っていないだろう…。
 
 「もう、離してください!」
 
 「出て行くまでもないだろう!」
 
 「あなたに、何が分かるんですか!この嘘つき!」
 
 悠一朗の手が、掴んでいた雪乃の腕から離れた。雪乃は、泣きながら悠一朗を睨み、悠一朗の顔つきも感情的になったのが分かった。
 
 「俺がいつ、おまえに嘘ついたんだよ?」
 
 「自分の胸に手を当てて聞いたらどうですか?」
 
 「は?じゃ、言えよ。思ってることあんなら」
 
 雪乃は溢れ出す涙を拭いながら、血が出てもおかしくないぐらい下唇をぎゅっと噛んだ。ポケットからスマホを取り出し、悠一朗へ写真の画面を見せつけた。
 
 「この前、この女性とどこへ行ったんですか?」
 
 「…酔ってたこいつを家まで送っただけ」
 
 「他には?」
 
 「…酔ってたこいつに無理矢理キスされた」
 
 雪乃の怒りは頂点に達した。雪乃は思いっきり、悠一朗の頬を引っ叩き、怒りで震えながら口を開いた。
 
 「私がどんな思いで日々過ごしているか、分かりますか…?誰からも認められず、日々冷たい視線を向けられ、あなたに好意を持ってる女性からは嫌味や暴言を吐かれ、助けてほしいあなたからは何もなくて…。私はあなたの何なんですか!」
 
 「……」
 
 「それに…。他に好きな人がいるんですよね?」
 
 「…は?」
 
 「由妃さん…。忘れられないんじゃないんですか?」
 
 悠一朗の目が驚くように見開いた。雪乃は確信を得たように、このままの勢いで続ける。
 
 「あなたがキスしたっていうその女性から聞きました。あなたに忘れられない人がいるって。だから、私を好きになることもないと。私じゃなくて、その人と結婚すれば良かったじゃないですか…。何でこんな身勝手なことするんです?好きでもない私と結婚するなんて…」
 
 「…おまえこそ、俺の何が分かんだよ!」
 
 「いつも、何も話してくれないじゃないですか!」
 
 「おまえだっていつも話さねーじゃん!」
 
 雪乃の悠一朗は、お互いをきつく見遣った。こんなに激しく言い合ったのは初めてだ。今日は、お互い収まるところに収まるのは難しいと雪乃は思った。
 
 「…私はもう、出て行きます」
 
 「勝手にしろ」
 
 悠一朗は玄関を出て酒造の方へ歩いて行く。雪乃も荷物を抱え、もう二度と田上家へ戻れないかもしれないと思いながら、田上家の門へ向かった。
 
 
 ◇◇◇
 
 
 (やってしまった…。もっと冷静に話すべきだった…。悠一朗さんを、こんなふうに問いただしたかった訳じゃない…。まだ仕事があるのに、駆けつけてくれた悠一朗さんに、何で素直に甘えられなかったんだろう…。辛いってちゃんと言えば良かったのに…)
 
 雪乃は茶屋町を歩きながら、後悔ばかりを頭の中で並べた。スマホを見ても、悠一朗からは何もない。雪乃も引くに引けず、スマホの画面を閉じた。
 
 長谷川庵の前に着き、雪乃は恐る恐るインターホンを鳴らした。
 
 「あら、雪!どうしたの?」
 
 由美子が驚いた顔で玄関の扉を開けた。
 
 「ごめん…。悠一朗さんと喧嘩しちゃって…。帰ってきちゃった…」
 
 雪乃は由美子の顔を見て安心したせいか、その場でボロボロと泣き崩れた。何事かと弟の旬も心配そうに駆け寄る。
 
 「どうしたん?」
 
 「悠一朗さんと喧嘩しちゃったんだって…」
 
 「へぇ。兄さんと?まぁ、とりあえず中に入ったら?」
 
 雪乃は旬に支えられ、涙で汚れた顔をタオルで隠しながら、長谷川家の二階へ上がった。
 
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