金六花恋ひ物語
第三章 序話 黒影
第三章 序話 黒影
晩夏の候。町屋三区にある喫茶ロマンにて、六人がけのテーブル席で何やら建設会社と町屋のお偉いさんたち五人が、腹の探り合いをしているようだ。苛立ちもあるからだろうか。珈琲カップをカタカタと鳴らす音がやたらめったら聞こえてくる。
「いやぁ〜、茶屋町の皆さん。そこを何とかお願いできませんでしょうか?皆さんのご意向だけなんですよ〜、収めていただきたいのは。皆さんも、もっとこの茶屋町が賑わって欲しいと思いませんか?」
歳のいった建設会社の営業担当・杉林が、食い気味になって問いかける。
「こんなデカい建物、この町屋にはいらんのだよ!何が商業施設だ。建てるならもう少し離れた所にしてくれ」
「そうだ。そうだ。どうせ、こんなもん最初だけやさかいに。本当にお客さん来るよーになるんけ?」
町屋の町内会会長代理・林と、副代理・川本は反対意見を述べた。
どうやら、この建設会社はこの茶屋町の二区にある外れの空き地に、宿泊施設と商業施設が併用された十階建てのビルを建設したいらしい。町屋は、重要伝統的建造物保存地区として登録されている。街並みに合わない建設物を建てることは、地域的特色を乱す行為であり、町屋全体はおろか市も黙っていないだろう。
しかし、町屋全体としての課題も多く残る。毎日賑わいを見せている茶屋町だが、観光客は年々減少傾向にあり、各々の業績は右肩上がりという訳ではない。新しい物好きという地域性もあって、町屋に魅力的な商業施設や宿泊施設ができるとなれば、集客は存分に見込めるはずだ。だが、町屋のお偉いさんたちが何故ここまで反対しているかというと、建設会社が黒崎建設という他県の者だからだ。
『一見さん、お断り』
そんな名が根強く続く地域で、他所者がこの界隈の土地を耕すのは容易くない。
「ふむ。施設の建設は別に反対じゃないんだが、上に伸ばすんやなくて横に伸ばしたらどうだろうか。新しいものを作るのは大切なことやさかいに、そう思わんけ?皆さん。今後の町屋の未来の為にも、安定的な町づくりは我々にとっても大事なことや。こっちも早よ折り合いつけたいんよ。そちらも、こっちの要望に折り合いつけてくれんかね」
どしっと構えた様子で分厚い胸板をそらしながら、皆と違う意見を言ったのは善一郎だった。
「いや、しかし田上社長…」
林と川本は善一郎に不満そうな顔を浮かべた。
「分かりました田上社長。少しこちらもご要望に応じて再検討いたします。御三方のご意見さえ通れば、こちらは動けますので」
そう口火を切ったのは、黙って聞いていた黒崎だった。
「随分と強気な発言だな。君は」
「えぇ。こちらはしっかりと、足元を固めておりますので。他県の者だからといって、私たちを見縊らないでいただきたい」
何かを射るような鋭い視線を善一郎に一瞬向けたが、黒崎はそれを瞬時に眼の奥にしまい込み「よろしくお願いいたします」と言って三日月のような笑みを見せた。善一郎は、読めない奴だ…と言いたげに、残っていた珈琲を啜った。
◇◇◇
「黒崎副社長…、上手くいきますかね?なかなかこの辺の人達、手強いですよ…」
「心配する必要はない」
黒崎建設の御曹司、黒崎興弥(くろさきこうや)は遠くを見つめたまま、少し低い声で杉林の弱音をあしらった。
心配する必要はない。我々はあくまでも建設するだけだ。その後の利益さえ取れれば、どこに何を建てようが、誰がどうなろうが知ったことではない。黒崎は常にこうした腹黒い感情を抱え、商談に挑んでいる。初めからこうなることなど承知の上だった。
「裏の手も引いてある」
「裏の手…ですか?」
「あぁ」
黒崎は急に悪巧みをしているような目付きに変わり、それを見た杉林は、ゾッとしたように黒崎から目線を外した。
黒崎は町屋を全体を少し散策したいと杉林に伝え、ひとり一段と黒の映えるスーツを照からせて、町屋の奥へと進んで行った。
(映えるところはここまでか…。こんなけしかないのに、どうやって売上取ってんだよ。早く新しいもの作って、もっと集客したらいいのに)
黒崎は他所者らしく皮肉った。
金さえあれば、建物は建つ。しかし、その財源の確保、維持管理に関わる各々の問題があることは、黒崎もある程度は把握している。
色々と面倒くさい町なんだろうな…、と思わず溜息が漏れた。
黒崎が町屋の四区にさしかかる所を歩いていると、軒先から妙な声が聞こえてくる。黒崎は思わず立ち止まり、スマホを見る振りをして耳を研ぎ澄ました。
「ねぇ、また歩いとるよ、あの子」
「ほんと。よくも堂々と歩いていられるわよ。ここらの人の声が聞こえてないんかしらね〜?」
陰口をコソコソと話す中年女性たちの目線を追うと、着物に身を包んだ麗しい女性が、トコトコとこちら側に向かって歩いてくるのが見えた。
「お人好しに見えて、意外とがんこな性格ねんよ」
「じゃなきゃ、田上酒造には嫁げんやさかいに〜」
(田上酒造の嫁?田上社長んとこの息子の奥さんか…)
「若旦那とは、あんまり仲が良くないみたいよ」
「ほうなん?」
「一緒に歩いてるところ見たことないし、いっつもひとりで屋敷におるらしいわ。若旦那もほったらかしで、夜な夜な外に出掛けとるって話よ」
黒崎は、もう少し耳を傾けていようと思ったのだが、着物を着た女性が近づいてくると、陰口は瞬く間に消え去った。
着物の女性とすれ違い、グリンティーのような香りが黒崎の鼻腔を通過した。香りを追うかのように後ろ姿を眺めていると、着物の女性が和装バッグからスマホを取り出した。それと同時にハンカチが地面に落ちたことに気づいていない様子で、着物を着た女性はそのまま歩いていく。黒崎は本能的に足を動かし、ハンカチを拾って着物の女性に声をかけた。
「落ちましたよ」
女性はくるっと振り向き、驚いた様子で黒崎が差し出したハンカチを受け取った。
「ご親切にありがとうございます。助かりました」
柔らかい微笑みを見せながら、玉を転がすような声で礼を言われ、黒崎はあまりの透き通った美しさに一瞬戸惑った。
「それでは、私はこれで」
「あ、はい。お気をつけて」
着物の女性は、会釈をしながら向きを変えて歩いて行く。黒崎は田上酒造が気になり、いや正確に言えば田上社長の御子息の素性が気になり、田上酒造の店を目指して歩いて行った。