金六花恋ひ物語
7.卯の花色部屋
7.卯の花色部屋
雀がチュンチュンと鳴く音と共に、雪乃はゆっくり瞼を開け、ぼんやりとした目で見慣れぬ天井を眺めた。
(そうか…。ここは悠一朗さんちの母屋か…)
昨日、田上家の敷居を跨いだあと、雪乃は簡単に食事を済ませ、少し早く休ませてもらった。初日から悠一朗と同じ屋根の下で過ごすのも気が引けるのでは?との理由で、凛子の気の利いた計らいで、母屋の客間に通された雪乃はここで一晩を過ごした。
家全体が、檜の香りがする。
この客間も、新畳の香りと檜の香りが混じり、和を感じさせる穏やかな空気が流れていた。
雪乃は上等な布団を畳み、身支度を整える。
長い髪を一つに結い、襖を開けた。
開放的な天井が続く廊下の下で、ニッコリと笑みを見せていた凛子に、雪乃は思わず「はっ」と驚く。
「おはようございます。奥様。あ、少しびっくりさせてしまいましたね。今、奥様にお声をかけようと思っていたところで…。あちらのお部屋に朝食を用意しております。さぁさぁ、まいりましょう」
「あ、ありがとうございます…」
両肩に両手を添えられ、凛子に押されるがまま、雪乃はまた一段と開放的なリビングへ誘導された。
檜の大きな食卓テーブルに座って、善一朗が新聞を読んでいる。
珈琲と煎茶が二つ用意されており、善一朗は煎茶を啜っていた。
「やぁ、おはよう雪ちゃん。よく眠れたかい?」
クシャッと新聞を次のページに開こうとしながら、善一朗は雪乃に優しく問いかける。
「お父様、おはようございます。昨日はありがとうございました。お陰様でよく眠れました」
「そうけ。ほんなら良かった。まぁまぁ、少しずつ慣れてってくれやーええから。わしは、今日から少し別荘に行く。水の研究や」
「お水…?ですか」
「そうだ。美味しい酒には美味しい水が必要やさかいに〜。ちょっと隣の県にな。まぁ、わしがおらんでもここには凄腕の手伝いがおるさけ。何でも頼ったらいい。倅のこともよろしく頼むよ」
そう言って、善一朗は席を立つ。凛子とウメに何かを話しているようだが、雪乃はそんなことよりも、別荘を持っているということと、この圧巻な広さのリビングに衝撃を受けていた。
呆然と立ち尽くしていると、背後から「おはよう」という声が聞こえてくる。振り向くと、昨日とは違うラフな格好をした悠一朗が、目の前を通り過ぎていく。
「こっち座ったら?」
「あぁ…はい」
悠一朗に言われるがまま、雪乃は檜の食卓テーブルの椅子に腰を下ろした。
それに気づいたウメがすぐに朝食を持ってくる。
「お待たせいたしました。奥様は、毎朝何を飲まれますか?坊ちゃんは、いつも通り、珈琲とお水でよろしいですね?」
「あぁ。なぁウメさん。坊ちゃんはやめてくれ。恥ずかしい…」
雪乃の顔をチラッと見たあと、悠一朗は少し照れくさそうに顔を歪めた。
「あらあら。ウフフ…」とウメは口元を隠し、雪乃の方を見る。
「あ、私は温かいお茶をいただければ…。あの…何かお手伝いすることは…」
雪乃が立ち上がろうとすると、ウメの皺の寄った手が優しく肩に乗った。
「奥様。お気になさらず。これも私たちの立派な仕事ですから。奥様はどうぞ、"悠一朗さん"の横で一緒に朝食をとってくださいませ」
雪乃の身長よりも低い猫背のウメは、さささとキッチンまで歩き、棚に仕舞ってあった珈琲カップを取ろうとしていた。
「今日、俺少しだけ仕事しに行かなきゃならないから、家空ける。それまで、凛子さんやウメさんに色々聞いといて。帰ってきたら、離れの家案内するから」
悠一朗は、朝のニュース番組を見ながら、出された焼き鮭の和朝食に手を付けた。
雪乃はコクっと頷き、目の前に用意された和朝食を眺める。
(朝からとっても美味しそう〜)
雪乃は、長谷川家では滅多に出ない豪華な朝食を、幸せそうに頬張った。
◇◇◇
悠一朗を玄関先で見送った後、雪乃はまたリビングに戻り、大人しくソファーに腰をかけていた。凛子に「ゆっくりしててください」と言われた以上、何も出来ない。来て早々、こうして寛いでいるのは不躾な気がするが、雪乃はただただ二人を待つしかなかった。
朝食の片付けを終え、凛子とウメは雪乃の持ってきた茶菓子を皿に乗せて、雪乃の元にやってくる。
「奥様、お待たせいたしました〜。奥様と一緒に我々も、少し休憩させていただきますね」
「は、はい。どうぞ。もう何から何までやっていただき、すみません…」
謝ることは何もありませんよ、とウメが長谷川庵の花あやめ(菖蒲の花と草に見立てた羊羹)を眺めながら言う。凛子も頷きながら、菓子切で丁寧に羊羹を切り、そっと口に含んだ。二人が口に入れたのを確認して、雪乃も羊羹を口に含む。いつもと何も変わらない長谷川庵の味に、雪乃は安堵した。
「いついただいても美味ですね。やっぱり長谷川庵の和菓子は別物ですわ」
「えぇ。本当に。まさか坊ちゃんのお相手が、長谷川庵のお嬢様だとは露程も思っておらず。私ウメ、田上家に仕えた悔いはありませんわ」
「そ、そんなにですか?でも、喜んでいただけて、とても嬉しいです。ありがとうございます」
凛子とウメは頬に手を当てて、美味しそうに食べている。こうして戯れている姿が、大奥のドラマに出てくる御三方みたいで、雪乃は思わず笑ってしまった。
空気が和んだところで、凛子が茶を啜りながら、話を切り出す。
「では、改めまして、雪さん。田上家へようこそ。私は、お手伝いの凛子と申します。こちらは、十代目の頃からいらっしゃるウメさん。長年、私たちはこちらの裏側で、旦那様と坊ちゃんに仕えてまいりました。酒造のことも頭に叩き込んでおりますので、分からないことがあれば何なりと、奥様も気兼ねなく私たちを頼ってくださいませ。このあと、色々とお話しを交えながら、ルームツアーという形でこの屋敷をご案内いたします。広いので、ちゃんと私たちについてきてくださいね」
「は、はい。よろしくお願いします。あ、あの…」
「どうされました?」
凛子とウメが同時に雪乃の方を向く。
雪乃は、指をモジモジさせながら言葉を続ける。
「お父様の手前、呼び名が奥様だと少し失礼かと思いまして…。よろしければお二人には、名前で呼んでいただけたらと思うのですが、ダメでしょうか…?」
凛子とウメは顔を見合わせてニコッと笑う。
「では、雪さんとお呼びしても?流石にちゃん付けは、旦那様に叱られますから〜」
「いや、坊ちゃんに。フフフ」
「ぜひぜひ。そのようにお気軽に接していただければ、私も嬉しいです」
家の中では気を遣うことを極力減らしたい雪乃は、二人の様子を見て、少しだけ人心地がついた。
◇◇◇
大きな仏間に案内された雪乃は、鴨井の上に並べられた田上家代々続く遺影を眺める。
ウメが左から順に紹介していくのを、雪乃は黙って傾聴していた。
「続いてこちらが十代目の栄四朗さま。こちらが十代目の奥様キミ子さま。そして、この端のお写真が旦那様の奥様、坊ちゃんの母である万里子さまでらっしゃいます」
そこには、一人だけ随分と若い姿の遺影があった。
(悠一朗さんは、お母様に似ているんだ…)
雪乃はそう思いながら、万里子の遺影を静かに見つめる。その横から、懐かしむように凛子が口を開く。
「お見せしたかったですね、万里子さまに。万里子さまも、雪さんと一緒でとても美しい女性でした。お着物がとてもよく似合ってらっしゃって、旦那様が惚れ込むのも分かるほど…」
そう言いながら凛子は目に涙を滲ませていた。
ウメも万里子の遺影に手を合わせる。
「病弱で…。長く生きれないことを分かっていながらも、坊ちゃんをこの世に迎え入れたいと強く願っておられました。坊ちゃんをお産まれになった後、それはそれはとても可愛がっておられましたが、お身体は日に日に悪くなっていく一方で…。回復の兆しもないまま、坊ちゃんが5歳の誕生日を迎えられた翌日に…」
雪乃の両目が少しだけ滲む…。
悠一朗が時折見せる、孤独や寂しさを滲ませたような顔はこうした境遇から来ているものだろうと、雪乃は察した。
「私がここでお手伝いをしているのは、万里子さまに息子をお願いしたいという遺言で、ここに来ております。とても万里子さまのような母親にはなれませんでしたけれど…」
凛子の重みのある言葉に「ただの金持ちだからお手伝いがいる」という、浅はかな理由ではなかったのだと、雪乃は改めて反省した。
万里子の話をしばらく聞いた後、雪乃は大きなお仏壇に手を合わせ、仏間を後にする。
このあと雪乃は、凛子とウメの後ろに続き、この屋敷の事細かい配置などを見て回った。
夕方になり、凛子とウメは夕食の支度を始める。
「何か手伝わせてください」と願い出るも、凛子もウメも「座っていてください」との一点張りで、代わりに二人の話し相手になった。
そうしていると、ガラガラと玄関から扉の開く音が聞こえてくる。
「ただいま」と気怠そうに帰ってくる悠一朗に、雪乃は「おかえりなさい」と声をかけた。
悠一朗はしばらく雪乃を見て「あぁ、そうだったな」と一人納得したように振り返り、洗面所へ向かう。雪乃は、ん?と首を傾げ、悠一朗の背中を目で追った。
夕食もまた豪勢で、栄養の取れた魚料理の和食が並んでいた。善一朗は別荘に行くと、数週間は戻って来ない。四人で囲う初めての夕食は、意外にも談笑が多く穏やかだった。
凛子とウメは後片付けをした後、雪乃に「また明日来ますので」と言ってそれぞれ家に帰っていった。
(え…、ってことは、今夜は悠一朗さんと二人きりってこと…?)
雪乃の手が変な汗で湿る。
同じ屋根の下で異性と二人きり。
ましてや、こんな端正な顔つきの悠一朗と同じ空間で過ごさなければならないと思うと、変に意識してしまう…。
悠一朗は何の表情も変えず、テレビを観ている。
「離れ、行こうか」
「ふぇっ、は、はい…」
雪乃は変な裏声で返事をしてしまった。
悠一朗はテレビの電源を消して立ち上がる。
簡単な荷物を持って、母屋の玄関を出た悠一朗と雪乃は、庭の外に出て真隣の離れに向かった。
(綺麗な一軒家だ…。まだ建てたばっかりなのかな)
外観を眺めながら離れの中に足を踏み入れると、新築の真新しい匂いと、悠一朗の香水の香りが廊下から漂ってくる。
「ここが、俺らの家。好きに使っていいから」
「は、はい。ありがとうございます」
通されたリビングは綺麗に整頓され、グレーを基調としたインテリアで整えられていた。
「この家は、凛子さんやウメさんはあまり入って来ないから」
「そうなんですか?じゃ、お掃除とかやっていいんですね?」
雪乃は目をキラキラさせていた。毎日忙しなく長谷川庵で働いていた雪乃は、何もしない時間が妙に退屈で、何かをしていないと気が済まなかった。
「そうも言ってられなくなるぞ。これから雪乃には、酒造のこと色々覚えてもらわなきゃなんないし、いずれ店にも立ってもらいたいし」
「お店…?あの町屋の?」
「あぁ」
雪乃は少し不安になった。
田上酒造には色んな目がある。この結婚をよく思っていない人たちが四区には一定数いる。そういう人たちとの人付き合いがこれから始まると思うと、一気に気が重くなった。
「二階なんだけど、こっちが俺の部屋。んでこっちが一応寝室…」
雪乃の目の前に飛び込んできたのは、まだマットレスにカバーもされていない新品のダブルベッドだった。部屋の壁紙も、他の部屋の色と違って、淡い白を基調とした柔らかい空間だった。
「この部屋は、いつか結婚することがあったら使おうと思ってた部屋。この壁、卯の花色って言うらしい。あ、ベッドはどうしたらいいか分かんなかったし、とりあえずデカいの買っといた」
悠一朗はそう言ってマットレスに深く腰をかけ、マットレスの表面を撫でた。
雪乃も近づき、ふかふかなマットレスを触ろうとした刹那、悠一朗にぐいっと胸元へ引き寄せられた。
「ひゃっ」と雪乃は声を漏らし、悠一朗は雪乃を引き寄せたままマットレスに倒れ、雪乃は悠一朗に覆い被さるように寝そべった。
「どうする?一緒に寝る?俺は別にいいけど」
少しイジワルそうに尋ねてくる悠一朗の顔は、恐ろしいぐらい色気で溢れていた。
「ゆ、ゆう…っ。悠一朗さん…」
「ん…?どうした?そんな顔赤くして」
色気を帯びた顔から、更に悠一朗の透き通った声に甘みが加わる。
普通の恋人同士であれば、すぐにでもおっぱじまりそうな雰囲気だ。
「は、恥ずかしい…です」
と雪乃は、悠一朗の胸の上に顔を疼くませる。
(もうダメ。これ以上は、悠一朗さんの顔を見れない…)
そう思っていると、悠一朗がポンポンと雪乃の背中を叩く。
「ははっ。ちょっと、おちょくっただけ。いきなり一緒に寝るのは酷だと思うから、俺は自分の部屋で寝るから大丈夫。雪乃はここで一人で寝たらいい。でも…」
悠一朗は雪乃の身体と一緒に上体を起き上がらせ、雪乃を太腿の上に跨らせたまま向かい合った。
悠一朗は雪乃の背中に手を回し、雪乃を見上げる。
「少しずつ、俺にも慣れていって欲しい。ここで一緒に寝れるぐらいに…」
悠一朗は、赤面した顔を隠そうとする雪乃の左手首を掴んで、雪乃の唇に優しくキスをした。
雀がチュンチュンと鳴く音と共に、雪乃はゆっくり瞼を開け、ぼんやりとした目で見慣れぬ天井を眺めた。
(そうか…。ここは悠一朗さんちの母屋か…)
昨日、田上家の敷居を跨いだあと、雪乃は簡単に食事を済ませ、少し早く休ませてもらった。初日から悠一朗と同じ屋根の下で過ごすのも気が引けるのでは?との理由で、凛子の気の利いた計らいで、母屋の客間に通された雪乃はここで一晩を過ごした。
家全体が、檜の香りがする。
この客間も、新畳の香りと檜の香りが混じり、和を感じさせる穏やかな空気が流れていた。
雪乃は上等な布団を畳み、身支度を整える。
長い髪を一つに結い、襖を開けた。
開放的な天井が続く廊下の下で、ニッコリと笑みを見せていた凛子に、雪乃は思わず「はっ」と驚く。
「おはようございます。奥様。あ、少しびっくりさせてしまいましたね。今、奥様にお声をかけようと思っていたところで…。あちらのお部屋に朝食を用意しております。さぁさぁ、まいりましょう」
「あ、ありがとうございます…」
両肩に両手を添えられ、凛子に押されるがまま、雪乃はまた一段と開放的なリビングへ誘導された。
檜の大きな食卓テーブルに座って、善一朗が新聞を読んでいる。
珈琲と煎茶が二つ用意されており、善一朗は煎茶を啜っていた。
「やぁ、おはよう雪ちゃん。よく眠れたかい?」
クシャッと新聞を次のページに開こうとしながら、善一朗は雪乃に優しく問いかける。
「お父様、おはようございます。昨日はありがとうございました。お陰様でよく眠れました」
「そうけ。ほんなら良かった。まぁまぁ、少しずつ慣れてってくれやーええから。わしは、今日から少し別荘に行く。水の研究や」
「お水…?ですか」
「そうだ。美味しい酒には美味しい水が必要やさかいに〜。ちょっと隣の県にな。まぁ、わしがおらんでもここには凄腕の手伝いがおるさけ。何でも頼ったらいい。倅のこともよろしく頼むよ」
そう言って、善一朗は席を立つ。凛子とウメに何かを話しているようだが、雪乃はそんなことよりも、別荘を持っているということと、この圧巻な広さのリビングに衝撃を受けていた。
呆然と立ち尽くしていると、背後から「おはよう」という声が聞こえてくる。振り向くと、昨日とは違うラフな格好をした悠一朗が、目の前を通り過ぎていく。
「こっち座ったら?」
「あぁ…はい」
悠一朗に言われるがまま、雪乃は檜の食卓テーブルの椅子に腰を下ろした。
それに気づいたウメがすぐに朝食を持ってくる。
「お待たせいたしました。奥様は、毎朝何を飲まれますか?坊ちゃんは、いつも通り、珈琲とお水でよろしいですね?」
「あぁ。なぁウメさん。坊ちゃんはやめてくれ。恥ずかしい…」
雪乃の顔をチラッと見たあと、悠一朗は少し照れくさそうに顔を歪めた。
「あらあら。ウフフ…」とウメは口元を隠し、雪乃の方を見る。
「あ、私は温かいお茶をいただければ…。あの…何かお手伝いすることは…」
雪乃が立ち上がろうとすると、ウメの皺の寄った手が優しく肩に乗った。
「奥様。お気になさらず。これも私たちの立派な仕事ですから。奥様はどうぞ、"悠一朗さん"の横で一緒に朝食をとってくださいませ」
雪乃の身長よりも低い猫背のウメは、さささとキッチンまで歩き、棚に仕舞ってあった珈琲カップを取ろうとしていた。
「今日、俺少しだけ仕事しに行かなきゃならないから、家空ける。それまで、凛子さんやウメさんに色々聞いといて。帰ってきたら、離れの家案内するから」
悠一朗は、朝のニュース番組を見ながら、出された焼き鮭の和朝食に手を付けた。
雪乃はコクっと頷き、目の前に用意された和朝食を眺める。
(朝からとっても美味しそう〜)
雪乃は、長谷川家では滅多に出ない豪華な朝食を、幸せそうに頬張った。
◇◇◇
悠一朗を玄関先で見送った後、雪乃はまたリビングに戻り、大人しくソファーに腰をかけていた。凛子に「ゆっくりしててください」と言われた以上、何も出来ない。来て早々、こうして寛いでいるのは不躾な気がするが、雪乃はただただ二人を待つしかなかった。
朝食の片付けを終え、凛子とウメは雪乃の持ってきた茶菓子を皿に乗せて、雪乃の元にやってくる。
「奥様、お待たせいたしました〜。奥様と一緒に我々も、少し休憩させていただきますね」
「は、はい。どうぞ。もう何から何までやっていただき、すみません…」
謝ることは何もありませんよ、とウメが長谷川庵の花あやめ(菖蒲の花と草に見立てた羊羹)を眺めながら言う。凛子も頷きながら、菓子切で丁寧に羊羹を切り、そっと口に含んだ。二人が口に入れたのを確認して、雪乃も羊羹を口に含む。いつもと何も変わらない長谷川庵の味に、雪乃は安堵した。
「いついただいても美味ですね。やっぱり長谷川庵の和菓子は別物ですわ」
「えぇ。本当に。まさか坊ちゃんのお相手が、長谷川庵のお嬢様だとは露程も思っておらず。私ウメ、田上家に仕えた悔いはありませんわ」
「そ、そんなにですか?でも、喜んでいただけて、とても嬉しいです。ありがとうございます」
凛子とウメは頬に手を当てて、美味しそうに食べている。こうして戯れている姿が、大奥のドラマに出てくる御三方みたいで、雪乃は思わず笑ってしまった。
空気が和んだところで、凛子が茶を啜りながら、話を切り出す。
「では、改めまして、雪さん。田上家へようこそ。私は、お手伝いの凛子と申します。こちらは、十代目の頃からいらっしゃるウメさん。長年、私たちはこちらの裏側で、旦那様と坊ちゃんに仕えてまいりました。酒造のことも頭に叩き込んでおりますので、分からないことがあれば何なりと、奥様も気兼ねなく私たちを頼ってくださいませ。このあと、色々とお話しを交えながら、ルームツアーという形でこの屋敷をご案内いたします。広いので、ちゃんと私たちについてきてくださいね」
「は、はい。よろしくお願いします。あ、あの…」
「どうされました?」
凛子とウメが同時に雪乃の方を向く。
雪乃は、指をモジモジさせながら言葉を続ける。
「お父様の手前、呼び名が奥様だと少し失礼かと思いまして…。よろしければお二人には、名前で呼んでいただけたらと思うのですが、ダメでしょうか…?」
凛子とウメは顔を見合わせてニコッと笑う。
「では、雪さんとお呼びしても?流石にちゃん付けは、旦那様に叱られますから〜」
「いや、坊ちゃんに。フフフ」
「ぜひぜひ。そのようにお気軽に接していただければ、私も嬉しいです」
家の中では気を遣うことを極力減らしたい雪乃は、二人の様子を見て、少しだけ人心地がついた。
◇◇◇
大きな仏間に案内された雪乃は、鴨井の上に並べられた田上家代々続く遺影を眺める。
ウメが左から順に紹介していくのを、雪乃は黙って傾聴していた。
「続いてこちらが十代目の栄四朗さま。こちらが十代目の奥様キミ子さま。そして、この端のお写真が旦那様の奥様、坊ちゃんの母である万里子さまでらっしゃいます」
そこには、一人だけ随分と若い姿の遺影があった。
(悠一朗さんは、お母様に似ているんだ…)
雪乃はそう思いながら、万里子の遺影を静かに見つめる。その横から、懐かしむように凛子が口を開く。
「お見せしたかったですね、万里子さまに。万里子さまも、雪さんと一緒でとても美しい女性でした。お着物がとてもよく似合ってらっしゃって、旦那様が惚れ込むのも分かるほど…」
そう言いながら凛子は目に涙を滲ませていた。
ウメも万里子の遺影に手を合わせる。
「病弱で…。長く生きれないことを分かっていながらも、坊ちゃんをこの世に迎え入れたいと強く願っておられました。坊ちゃんをお産まれになった後、それはそれはとても可愛がっておられましたが、お身体は日に日に悪くなっていく一方で…。回復の兆しもないまま、坊ちゃんが5歳の誕生日を迎えられた翌日に…」
雪乃の両目が少しだけ滲む…。
悠一朗が時折見せる、孤独や寂しさを滲ませたような顔はこうした境遇から来ているものだろうと、雪乃は察した。
「私がここでお手伝いをしているのは、万里子さまに息子をお願いしたいという遺言で、ここに来ております。とても万里子さまのような母親にはなれませんでしたけれど…」
凛子の重みのある言葉に「ただの金持ちだからお手伝いがいる」という、浅はかな理由ではなかったのだと、雪乃は改めて反省した。
万里子の話をしばらく聞いた後、雪乃は大きなお仏壇に手を合わせ、仏間を後にする。
このあと雪乃は、凛子とウメの後ろに続き、この屋敷の事細かい配置などを見て回った。
夕方になり、凛子とウメは夕食の支度を始める。
「何か手伝わせてください」と願い出るも、凛子もウメも「座っていてください」との一点張りで、代わりに二人の話し相手になった。
そうしていると、ガラガラと玄関から扉の開く音が聞こえてくる。
「ただいま」と気怠そうに帰ってくる悠一朗に、雪乃は「おかえりなさい」と声をかけた。
悠一朗はしばらく雪乃を見て「あぁ、そうだったな」と一人納得したように振り返り、洗面所へ向かう。雪乃は、ん?と首を傾げ、悠一朗の背中を目で追った。
夕食もまた豪勢で、栄養の取れた魚料理の和食が並んでいた。善一朗は別荘に行くと、数週間は戻って来ない。四人で囲う初めての夕食は、意外にも談笑が多く穏やかだった。
凛子とウメは後片付けをした後、雪乃に「また明日来ますので」と言ってそれぞれ家に帰っていった。
(え…、ってことは、今夜は悠一朗さんと二人きりってこと…?)
雪乃の手が変な汗で湿る。
同じ屋根の下で異性と二人きり。
ましてや、こんな端正な顔つきの悠一朗と同じ空間で過ごさなければならないと思うと、変に意識してしまう…。
悠一朗は何の表情も変えず、テレビを観ている。
「離れ、行こうか」
「ふぇっ、は、はい…」
雪乃は変な裏声で返事をしてしまった。
悠一朗はテレビの電源を消して立ち上がる。
簡単な荷物を持って、母屋の玄関を出た悠一朗と雪乃は、庭の外に出て真隣の離れに向かった。
(綺麗な一軒家だ…。まだ建てたばっかりなのかな)
外観を眺めながら離れの中に足を踏み入れると、新築の真新しい匂いと、悠一朗の香水の香りが廊下から漂ってくる。
「ここが、俺らの家。好きに使っていいから」
「は、はい。ありがとうございます」
通されたリビングは綺麗に整頓され、グレーを基調としたインテリアで整えられていた。
「この家は、凛子さんやウメさんはあまり入って来ないから」
「そうなんですか?じゃ、お掃除とかやっていいんですね?」
雪乃は目をキラキラさせていた。毎日忙しなく長谷川庵で働いていた雪乃は、何もしない時間が妙に退屈で、何かをしていないと気が済まなかった。
「そうも言ってられなくなるぞ。これから雪乃には、酒造のこと色々覚えてもらわなきゃなんないし、いずれ店にも立ってもらいたいし」
「お店…?あの町屋の?」
「あぁ」
雪乃は少し不安になった。
田上酒造には色んな目がある。この結婚をよく思っていない人たちが四区には一定数いる。そういう人たちとの人付き合いがこれから始まると思うと、一気に気が重くなった。
「二階なんだけど、こっちが俺の部屋。んでこっちが一応寝室…」
雪乃の目の前に飛び込んできたのは、まだマットレスにカバーもされていない新品のダブルベッドだった。部屋の壁紙も、他の部屋の色と違って、淡い白を基調とした柔らかい空間だった。
「この部屋は、いつか結婚することがあったら使おうと思ってた部屋。この壁、卯の花色って言うらしい。あ、ベッドはどうしたらいいか分かんなかったし、とりあえずデカいの買っといた」
悠一朗はそう言ってマットレスに深く腰をかけ、マットレスの表面を撫でた。
雪乃も近づき、ふかふかなマットレスを触ろうとした刹那、悠一朗にぐいっと胸元へ引き寄せられた。
「ひゃっ」と雪乃は声を漏らし、悠一朗は雪乃を引き寄せたままマットレスに倒れ、雪乃は悠一朗に覆い被さるように寝そべった。
「どうする?一緒に寝る?俺は別にいいけど」
少しイジワルそうに尋ねてくる悠一朗の顔は、恐ろしいぐらい色気で溢れていた。
「ゆ、ゆう…っ。悠一朗さん…」
「ん…?どうした?そんな顔赤くして」
色気を帯びた顔から、更に悠一朗の透き通った声に甘みが加わる。
普通の恋人同士であれば、すぐにでもおっぱじまりそうな雰囲気だ。
「は、恥ずかしい…です」
と雪乃は、悠一朗の胸の上に顔を疼くませる。
(もうダメ。これ以上は、悠一朗さんの顔を見れない…)
そう思っていると、悠一朗がポンポンと雪乃の背中を叩く。
「ははっ。ちょっと、おちょくっただけ。いきなり一緒に寝るのは酷だと思うから、俺は自分の部屋で寝るから大丈夫。雪乃はここで一人で寝たらいい。でも…」
悠一朗は雪乃の身体と一緒に上体を起き上がらせ、雪乃を太腿の上に跨らせたまま向かい合った。
悠一朗は雪乃の背中に手を回し、雪乃を見上げる。
「少しずつ、俺にも慣れていって欲しい。ここで一緒に寝れるぐらいに…」
悠一朗は、赤面した顔を隠そうとする雪乃の左手首を掴んで、雪乃の唇に優しくキスをした。