すみっこ屋敷の魔法使い
第一章:すみっこ屋敷の魔法使い
ふんわり。アールグレイの香り。たちのぼる湯気はすうっと空気のなかに溶けて。
ドキドキと高鳴る胸、高揚する心。初めての、「悪いコト」。
がむしゃらにエディの屋敷から飛び出してきてしまった。そうしたら、不思議な「すみっこ屋敷」にたどり着いてしまった。
エディは酷く怒っているだろう。けれど、今はそんなこと気にならない。
ただ、目の前で微笑む「彼」しか見えなかった。
「どうぞ。砂糖はいる?」
「……いえ、大丈夫です……」
モアは屋敷のなかに案内された。
きれいなインテリアが並んだ、暖かな屋敷。青年はモアの前に座ると、にこっと優しく微笑んだ。
「俺はイリス。よろしくね、モア」
「……よろしくお願いします……」
屋敷の主は、イリスという名前のようだ。
モアはエディ以外の人間と話す機会がほとんどないため、彼を前にして何を話せばよいのか困ってしまった。そもそも、今、自分に何が起こっているのかもわからない。
「びっくりしたでしょ。急にこんな屋敷が現われて」
「はっ……はい……あの……これは、どういう……」
「これは俺の魔法。あの招待状を開封すると、この屋敷に招待されるように魔法を仕掛けているんだ」
「……私の手紙、届いたのですか? 宛先、書いていないのに……」
「それも俺の魔法。『すみっこ屋敷』って書いてくれれば、俺のもとに届くようにしているんだよ」
「……そんな魔法があるのですね……」
イリスが話す魔法は、モアの全く知らない魔法だった。
モアがエディに教わる魔法は、悪魔を使役する恐ろしい魔術だ。彼の魔法はどうだろう。きらきらとしていて、美しい。
イリスは色んなことを話してくれた。
この「すみっこ屋敷」のこととか。
「すみっこ屋敷」とは、誰かがいつのまにか、言い始めた呼び名らしい。街のすみっこにあるから、「すみっこ屋敷」。イリスもその呼び名を気に入って「すみっこ屋敷」と呼んでいるのだとか。
「あの……街のすみっこにあるって……そもそもここは、どこの街なのでしょうか。エディ様のお屋敷は……」
「……エディ?」
「あっ……ノルダール伯爵のことです。私、エディ様のお屋敷から来て……」
「……」
イリスはじっとモアの顔を見つめる。視線はわずか下に。モアの首についている、首輪。
イリスは立ち上がると、モアの隣まで歩み寄ってきた。そして、とん、とモアの首輪に触れる。
「ノルダール伯爵のお屋敷からは少し離れているんだ。ここは、あの街ではないよ」
「そうなのですか……――あっ、」
瞬間、ぽろ、とモアの首輪が取れてしまった。モアはびっくりして、思わず声をあげてしまう。この首輪は簡単に外せないものだった。外そうとすると首が締め付けられてしまうのだ。だから、あまりにも簡単に外されて驚いてしまった。
「これがついていたところ、少し赤くなっているね。痛くなかった?」
「……少し」
「じゃあ、治してあげる」
イリスがモアの首に触れる。ぴく、とモアが身じろいだが、首輪の痕はすぐに消えた。
「ねえ、モア。きみは『普通の女の子になりたい』ってあの手紙に書いてくれたけれど、それ、どういう意味?」
「え……」
突然、手紙のことに触れられて、モアは少し戸惑ってしまった。
なぜ「普通の女の子になりたい」なんて書いたのだろう。
悪魔に、エディに、身体を辱められる毎日から抜け出してみたかったのかもしれない。けれど、それはイリスには言えなくて、モアは口ごもる。普通の女の子ってなんだろう。それも、よくわからなかった。
「『普通の女の子』ってなんだろうね。俺も、昔『普通の男の子になりたい』って思ったことがあった」
「……イリス様も、普通……じゃなかったんですか?」
「イリスでいいよ。うーん、どうかな。ふふ、お互い様ってことで」
にこっとイリスが笑う。
なぜかドキッとしてしまって、モアは彼から目を離した。
イリスはまた椅子に座って、こく、と紅茶を飲む。「どうぞ」と進められて、モアはクッキーを食べた。サク、としていて、甘くて、美味しい。舌の上に香ばしくて甘い香りが染み渡るような感覚がする。
「じゃあさ、モア。普通の生活をしてみよう。俺と。どう?」
「……イリスと?」
「ノルダール伯爵のところにいたんだろう? きみにとってそこで暮らすのが普通じゃないって感じたのなら、俺のところで普通に暮らしてみるのはどうかなって」
「……でも。私がいなくなったら、エディ様が……。私、エディ様にお仕置きされてしまいます」
「きみがここにいることなんて、わかりっこないさ。あの屋敷から遠く離れた場所なんだから」
イリスが「はい決まり」といって笑う。
普通の暮らしってなんだろう。モアにはそれすらもわからない。けれど――それを彼に教えてもらえるなら、それがいい。そんなことを思った。
ドキドキと高鳴る胸、高揚する心。初めての、「悪いコト」。
がむしゃらにエディの屋敷から飛び出してきてしまった。そうしたら、不思議な「すみっこ屋敷」にたどり着いてしまった。
エディは酷く怒っているだろう。けれど、今はそんなこと気にならない。
ただ、目の前で微笑む「彼」しか見えなかった。
「どうぞ。砂糖はいる?」
「……いえ、大丈夫です……」
モアは屋敷のなかに案内された。
きれいなインテリアが並んだ、暖かな屋敷。青年はモアの前に座ると、にこっと優しく微笑んだ。
「俺はイリス。よろしくね、モア」
「……よろしくお願いします……」
屋敷の主は、イリスという名前のようだ。
モアはエディ以外の人間と話す機会がほとんどないため、彼を前にして何を話せばよいのか困ってしまった。そもそも、今、自分に何が起こっているのかもわからない。
「びっくりしたでしょ。急にこんな屋敷が現われて」
「はっ……はい……あの……これは、どういう……」
「これは俺の魔法。あの招待状を開封すると、この屋敷に招待されるように魔法を仕掛けているんだ」
「……私の手紙、届いたのですか? 宛先、書いていないのに……」
「それも俺の魔法。『すみっこ屋敷』って書いてくれれば、俺のもとに届くようにしているんだよ」
「……そんな魔法があるのですね……」
イリスが話す魔法は、モアの全く知らない魔法だった。
モアがエディに教わる魔法は、悪魔を使役する恐ろしい魔術だ。彼の魔法はどうだろう。きらきらとしていて、美しい。
イリスは色んなことを話してくれた。
この「すみっこ屋敷」のこととか。
「すみっこ屋敷」とは、誰かがいつのまにか、言い始めた呼び名らしい。街のすみっこにあるから、「すみっこ屋敷」。イリスもその呼び名を気に入って「すみっこ屋敷」と呼んでいるのだとか。
「あの……街のすみっこにあるって……そもそもここは、どこの街なのでしょうか。エディ様のお屋敷は……」
「……エディ?」
「あっ……ノルダール伯爵のことです。私、エディ様のお屋敷から来て……」
「……」
イリスはじっとモアの顔を見つめる。視線はわずか下に。モアの首についている、首輪。
イリスは立ち上がると、モアの隣まで歩み寄ってきた。そして、とん、とモアの首輪に触れる。
「ノルダール伯爵のお屋敷からは少し離れているんだ。ここは、あの街ではないよ」
「そうなのですか……――あっ、」
瞬間、ぽろ、とモアの首輪が取れてしまった。モアはびっくりして、思わず声をあげてしまう。この首輪は簡単に外せないものだった。外そうとすると首が締め付けられてしまうのだ。だから、あまりにも簡単に外されて驚いてしまった。
「これがついていたところ、少し赤くなっているね。痛くなかった?」
「……少し」
「じゃあ、治してあげる」
イリスがモアの首に触れる。ぴく、とモアが身じろいだが、首輪の痕はすぐに消えた。
「ねえ、モア。きみは『普通の女の子になりたい』ってあの手紙に書いてくれたけれど、それ、どういう意味?」
「え……」
突然、手紙のことに触れられて、モアは少し戸惑ってしまった。
なぜ「普通の女の子になりたい」なんて書いたのだろう。
悪魔に、エディに、身体を辱められる毎日から抜け出してみたかったのかもしれない。けれど、それはイリスには言えなくて、モアは口ごもる。普通の女の子ってなんだろう。それも、よくわからなかった。
「『普通の女の子』ってなんだろうね。俺も、昔『普通の男の子になりたい』って思ったことがあった」
「……イリス様も、普通……じゃなかったんですか?」
「イリスでいいよ。うーん、どうかな。ふふ、お互い様ってことで」
にこっとイリスが笑う。
なぜかドキッとしてしまって、モアは彼から目を離した。
イリスはまた椅子に座って、こく、と紅茶を飲む。「どうぞ」と進められて、モアはクッキーを食べた。サク、としていて、甘くて、美味しい。舌の上に香ばしくて甘い香りが染み渡るような感覚がする。
「じゃあさ、モア。普通の生活をしてみよう。俺と。どう?」
「……イリスと?」
「ノルダール伯爵のところにいたんだろう? きみにとってそこで暮らすのが普通じゃないって感じたのなら、俺のところで普通に暮らしてみるのはどうかなって」
「……でも。私がいなくなったら、エディ様が……。私、エディ様にお仕置きされてしまいます」
「きみがここにいることなんて、わかりっこないさ。あの屋敷から遠く離れた場所なんだから」
イリスが「はい決まり」といって笑う。
普通の暮らしってなんだろう。モアにはそれすらもわからない。けれど――それを彼に教えてもらえるなら、それがいい。そんなことを思った。