氷の悪女の契約結婚~愛さない宣言されましたが、すぐに出て行って差し上げますのでご安心下さい~
視察 03
ネージュの出血は、圧迫止血でどうにか止まったように見えた。
このままここに居るよりも、一刻も早く医者に診せた方が良さそうだ。
そう判断すると、アリスティードは、ネージュを運ぶために使えるものがないか馬車の中を探し回った。
そして、馬の手網に目を付ける。
頑丈なロープが一本あれば、背負って運ぶ負担がかなり減らせる。
搬送や応急処置の知識は軍の訓練の中で身に付いたものだ。
俸給に釣られての入隊だったが、今はその決断をした当時の自分を褒めたい気分だった。
自分の外套やブランケットでネージュの体をしっかりと包むと、ロープで固定して背負い、アリスティードは町を目指した。
その道すがら考えるのは襲撃者の素性だ。
アリスティードを侯爵と認識し、ネージュを傷付けないように配慮していた。富裕層を狙った追い剥ぎではなく、狙われたのは自分に違いない。
(一体誰が何のために)
首謀者が誰なのか考えた時、真っ先に頭に浮かんだのはネージュの顔で、アリスティードは慌てて打ち消した。
アリスティードが死ねば彼女は得をする。自分を敵視して冷遇する夫を消したら、彼女は再び侯爵家の相続人に戻る。
この国では女性の爵位継承は認められていないので、彼女自身が爵位を継ぐ事はできないが、夫を選び直す事はできる。
しかし、襲撃者が現れた時の震え方や、アリスティードを護ろうとした姿が演技とはとても思えなかった。
そして、気になるのは体の古い傷痕だ。
あの痕跡は、間違いなく日常生活の中で付いたものではない。
ネージュはマルセルではないと強く否定し、ダニエルに折檻を受けた時の傷痕だと告白した。
そして、マルセルの血を引いているから、アリスティードを護ったと。
(マルセル爺さんがネージュを助けたって事だよな、たぶん……)
彼女がマルセルを本気で慕っているのは恐らく間違いない。
だが、そうなると、『あの男』の発言と矛盾が出てくる。
『あの男』は侯爵家を荒らす悪女を追い出してくれとアリスティードに囁き、毒婦から身を守るための防波堤と、圧力をかける為の存在として、偽の恋人役を紹介してきた。
ジャンヌは貧しいお針子で、恋人を演じている間の贅沢な暮らしに釣られてこの話に乗ったと言っていた。
また、ネージュを追い出し、アリスティードが侯爵家の財産を自由にできる時が来たら、追加で報酬を支払うという話になっている。
アリスティードとジャンヌの間に恋愛感情は一切ない。
時々ジャンヌは『本当に手を出してもいいよ』と言ってくるが、アリスティードは受け流していた。
ジャンヌは可愛らしく、からりとしていて付き合いやすい女性だが、そういう発言を気軽に異性に向かって発言してくるところが引っかかった。
恐らく目的を達成したら、報酬を手切れ金として渡して、去ってもらう事になるだろうと漠然と考えていた。
だが、『あの男』がアリスティードに嘘を吹き込んでいたとしたら、話は随分と変わって来る。
早急に確認しなければ。
男を問い詰める必要もあるが、その前に自分自身の目でネージュが一体どういう人物なのか、しっかりと確認し直すべきだろう。
だが、その前に彼女の手当てが先決だ。
アリスティードは一路、人家の明かりを目指した。
◆ ◆ ◆
「――ああ、今日も可愛く仕上がったね。君はいいよ。これまでに集めた人形の中で一番綺麗だ」
化粧を施され、精緻なレースを贅沢に使用した最高級のドレスを身に着けたネージュは、これまた高名な職人の手による豪奢な椅子に座らされていた。
目の前には、初老の紳士が立っている。
彼――ダニエルは、ネージュの頭頂部から足の爪先まで鑑賞すると、満足気に目を細めた。
「少し首を傾げようか。……そう。その角度。いいよ。そのまま微笑んで」
ネージュはダニエルの指示通り、顔を傾けて口角を上げる。
しかし――。
バシン!
ダニエルは、ネージュの胴体を手にしていた鞭で叩いた。
「前に教えたはずだ。微笑む時の表情はそうじゃない。口の形が違う。どうして教えた通りにできないんだ」
痛い。
じわりと目に涙が滲んだ。それをネージュは瞬きを繰り返して必死に散らす。
涙を流すと化粧が崩れるから、また鞭が飛んでくる。
「さあ、練習しようか。微笑いなさい、ネージュ」
無理だ。
じくじくと鞭で叩かれたお腹が痛むせいで、表情がどうしたって引き攣る。
すると、また鞭が唸って体に激痛が走った。
今度は堪えきれなくて、大粒の涙が目から零れる。
「……化粧が台無しじゃないか」
今度は顎を強く掴まれ、強引に上を向かされた。
「お前は見た目は完璧なのに、表情を作るのが下手すぎる……」
呆れた表情で深いため息をつくと、室内に控える女中に声をかけた。
「服と化粧が台無しだ。やり直しを」
「はい」
女中に表情はない。
ここでは彼に従順に従わねば、後々酷い目に遭うからだ。
この屋敷には、主人のまともではない趣味に、粛々と従う人材だけが雇い入れられている。
「さあ、行きましょう、お嬢様」
女中に促され、ネージュは椅子から立ち上がろうとした。しかし猛烈な腹部の痛みに悶絶する。
(――ああ、これは過去の夢だ)
過去の、孤児院からダニエルに引き取られ、一緒に暮らしていた頃の夢。
ネージュの夢は、基本的に色がついていないグレースケールだから、すぐにそれとわかる。
最近は見なくなっていたのに、どうしてまた見てしまったんだろう。
ネージュは、自分が夢を見ているのを自覚し、顔をしかめた。
(お願い。早く覚めて)
願うのに、お腹の痛みがやけに鮮明である。
(そう言えば、私、お腹に怪我を――)
と、思った瞬間ネージュはぱちりと目を開けた。
このままここに居るよりも、一刻も早く医者に診せた方が良さそうだ。
そう判断すると、アリスティードは、ネージュを運ぶために使えるものがないか馬車の中を探し回った。
そして、馬の手網に目を付ける。
頑丈なロープが一本あれば、背負って運ぶ負担がかなり減らせる。
搬送や応急処置の知識は軍の訓練の中で身に付いたものだ。
俸給に釣られての入隊だったが、今はその決断をした当時の自分を褒めたい気分だった。
自分の外套やブランケットでネージュの体をしっかりと包むと、ロープで固定して背負い、アリスティードは町を目指した。
その道すがら考えるのは襲撃者の素性だ。
アリスティードを侯爵と認識し、ネージュを傷付けないように配慮していた。富裕層を狙った追い剥ぎではなく、狙われたのは自分に違いない。
(一体誰が何のために)
首謀者が誰なのか考えた時、真っ先に頭に浮かんだのはネージュの顔で、アリスティードは慌てて打ち消した。
アリスティードが死ねば彼女は得をする。自分を敵視して冷遇する夫を消したら、彼女は再び侯爵家の相続人に戻る。
この国では女性の爵位継承は認められていないので、彼女自身が爵位を継ぐ事はできないが、夫を選び直す事はできる。
しかし、襲撃者が現れた時の震え方や、アリスティードを護ろうとした姿が演技とはとても思えなかった。
そして、気になるのは体の古い傷痕だ。
あの痕跡は、間違いなく日常生活の中で付いたものではない。
ネージュはマルセルではないと強く否定し、ダニエルに折檻を受けた時の傷痕だと告白した。
そして、マルセルの血を引いているから、アリスティードを護ったと。
(マルセル爺さんがネージュを助けたって事だよな、たぶん……)
彼女がマルセルを本気で慕っているのは恐らく間違いない。
だが、そうなると、『あの男』の発言と矛盾が出てくる。
『あの男』は侯爵家を荒らす悪女を追い出してくれとアリスティードに囁き、毒婦から身を守るための防波堤と、圧力をかける為の存在として、偽の恋人役を紹介してきた。
ジャンヌは貧しいお針子で、恋人を演じている間の贅沢な暮らしに釣られてこの話に乗ったと言っていた。
また、ネージュを追い出し、アリスティードが侯爵家の財産を自由にできる時が来たら、追加で報酬を支払うという話になっている。
アリスティードとジャンヌの間に恋愛感情は一切ない。
時々ジャンヌは『本当に手を出してもいいよ』と言ってくるが、アリスティードは受け流していた。
ジャンヌは可愛らしく、からりとしていて付き合いやすい女性だが、そういう発言を気軽に異性に向かって発言してくるところが引っかかった。
恐らく目的を達成したら、報酬を手切れ金として渡して、去ってもらう事になるだろうと漠然と考えていた。
だが、『あの男』がアリスティードに嘘を吹き込んでいたとしたら、話は随分と変わって来る。
早急に確認しなければ。
男を問い詰める必要もあるが、その前に自分自身の目でネージュが一体どういう人物なのか、しっかりと確認し直すべきだろう。
だが、その前に彼女の手当てが先決だ。
アリスティードは一路、人家の明かりを目指した。
◆ ◆ ◆
「――ああ、今日も可愛く仕上がったね。君はいいよ。これまでに集めた人形の中で一番綺麗だ」
化粧を施され、精緻なレースを贅沢に使用した最高級のドレスを身に着けたネージュは、これまた高名な職人の手による豪奢な椅子に座らされていた。
目の前には、初老の紳士が立っている。
彼――ダニエルは、ネージュの頭頂部から足の爪先まで鑑賞すると、満足気に目を細めた。
「少し首を傾げようか。……そう。その角度。いいよ。そのまま微笑んで」
ネージュはダニエルの指示通り、顔を傾けて口角を上げる。
しかし――。
バシン!
ダニエルは、ネージュの胴体を手にしていた鞭で叩いた。
「前に教えたはずだ。微笑む時の表情はそうじゃない。口の形が違う。どうして教えた通りにできないんだ」
痛い。
じわりと目に涙が滲んだ。それをネージュは瞬きを繰り返して必死に散らす。
涙を流すと化粧が崩れるから、また鞭が飛んでくる。
「さあ、練習しようか。微笑いなさい、ネージュ」
無理だ。
じくじくと鞭で叩かれたお腹が痛むせいで、表情がどうしたって引き攣る。
すると、また鞭が唸って体に激痛が走った。
今度は堪えきれなくて、大粒の涙が目から零れる。
「……化粧が台無しじゃないか」
今度は顎を強く掴まれ、強引に上を向かされた。
「お前は見た目は完璧なのに、表情を作るのが下手すぎる……」
呆れた表情で深いため息をつくと、室内に控える女中に声をかけた。
「服と化粧が台無しだ。やり直しを」
「はい」
女中に表情はない。
ここでは彼に従順に従わねば、後々酷い目に遭うからだ。
この屋敷には、主人のまともではない趣味に、粛々と従う人材だけが雇い入れられている。
「さあ、行きましょう、お嬢様」
女中に促され、ネージュは椅子から立ち上がろうとした。しかし猛烈な腹部の痛みに悶絶する。
(――ああ、これは過去の夢だ)
過去の、孤児院からダニエルに引き取られ、一緒に暮らしていた頃の夢。
ネージュの夢は、基本的に色がついていないグレースケールだから、すぐにそれとわかる。
最近は見なくなっていたのに、どうしてまた見てしまったんだろう。
ネージュは、自分が夢を見ているのを自覚し、顔をしかめた。
(お願い。早く覚めて)
願うのに、お腹の痛みがやけに鮮明である。
(そう言えば、私、お腹に怪我を――)
と、思った瞬間ネージュはぱちりと目を開けた。