氷の悪女の契約結婚~愛さない宣言されましたが、すぐに出て行って差し上げますのでご安心下さい~

絡まる思惑 02

 アリスティードの態度がこれまで頑なだったのは、ナゼールがネージュの悪評を散々に吹き込んだからで、ジャンヌはナゼールが用意した偽の恋人役だった――。

 アリスティードとエリックからそう伝えられたネージュは、呆然とつぶやいた。

「そんな、嘘です。ナゼール卿が……?」

 親身に侯爵家の為に働いてくれた彼が、ネージュとアリスティードの関係を拗らせる為に暗躍していたなんて信じられない。しかも彼とは、彼の父の代からの付き合いである。

 襲撃から三日が経過し、ようやく熱が下がって体を起こせるようになった所だ。
 そこにもたらされた悪い知らせに、ネージュは目眩を覚えた。

 しかも、ジャンヌもナゼールも姿を消したという。

「……二人の行方は引き続き捜索中です。並行して、代替わりしてから、当家がナゼールに任せた法的手続きに問題がなかったかは再確認を。今の所問題は出てきていないようですが、どうしてこんな……」

 エリックは悔しげだった。

「あの男にある事ない事吹き込まれたとはいえ……世間の噂を信じ込んで、酷い態度を取って申し訳ありませんでした」

 アリスティードは深々と頭を下げてくる。

「えっと、世間での私の評判は承知しております。しかも、初めて出会った当家の関係者から悪評を吹き込まれ、私を憎むように誘導されたという事ですよね? でしたらあの態度も頷けますから……。どうか頭を上げてください。それに口調も普段通りで大丈夫ですよ。レーネ侯爵家の当主はアリスティード様ですから……」

「ですが……」

 顔を上げたアリスティードは、迷い子のような顔をしていた。
 それはネージュも同じだ。

「ジャンヌさんとアリスティード様は、とても仲が良さそうに見えましたが……」

「あなたを追い出す為に演技をしていました」

 ネージュのつぶやきに、アリスティードは気まずげに答えた。

「……あの女が持ち去った宝飾品の中に、あなたが特別に大切にしていたものがあると聞きました……。俺はそれを止められたはずなのに……」

 その発言に、ネージュはアクアマリンのブローチの事を思い出した。

「裏のマーケットに流れる可能性が高いのではないかと……。現在全力で捜索に当たってはおりますが……」

 そう発言したのはエリックだ。

「どうかお気になさらないで下さい。屋敷を出る時に、宝石は置いていくつもりでしたから……」

 起こってしまった事を、今更とやかく言っても仕方がない。
 ネージュはやり切れない思いを抱えながらも、アリスティードに向かって微笑んだ。

「時間はかかるかもしれませんが、ブローチは絶対に取り戻します。俺は諦めませんから」

「……ありがとうございます。そう仰って頂けて嬉しいです」

 ネージュの答えを聞くと、アリスティードは肩を落とした。

「俺はあなたに他にも酷い事を……。以前の発言は撤回します。もしあなたが嫌でなければ、侯爵夫人として屋敷に残って頂けませんか?」

 ネージュはその提案に、目を見張った。

「法律上離婚は難しいので……きっとネージュ……さんにとっては不本意だと思うんですが……」

「不本意だなんて、そんな事は……。ですが、良いのでしょうか……? 私は傷物ですし評判も悪いです……」

「傷物だなんて俺は思ってません! 噂だってそうです。あなたが嫌なら俺は指一本触れないと誓います。ただ、これまで通り屋敷で暮らして下さったら……」

「ええっと……正直混乱して……」

 ネージュは眉を下げた。

「でも……、そうですね。アリスティード様が望んでくださるのなら……喜んで屋敷に残らせて頂きます」

 そう告げると、アリスティードは目を大きく見開いた。

「本当に……?」

「はい。私で良ければ……」

 屋敷に残る事自体は嫌ではない。侯爵家の女主人を務めるのも。
 そもそもネージュは、アリスティードを支えて、マルセルの遺したものを守りたいと思っていた。

 ネージュは一つ一つ思考を整理し、アリスティードの申し出を受けても大丈夫だと判断して頷く。

「あの、ネージュと呼び捨てにして頂いて大丈夫ですよ。あなたはレーネ侯爵家の当主でいらっしゃいますから……」

「……では、ネージュ……も、アリスと呼んで下さいますか?」

 どこか縋るような眼差しを向けられて、ネージュは目をわずかに見開いた。

「……はい。そうですね……。では、今日からはアリス様と呼ばせて頂きますね」

 自分の感情を分析すると、戸惑いが大部分を占めているが、愛称を呼ぶ許可を貰えたのは純粋に嬉しい。

「敬称はいらないです」

「そういう訳には参りません。侯爵家の正当な血を受け継ぐあなたと孤児の私では、そもそもの出自が違いますから……」

「…………」

 アリスティードは不服そうだ。
 
「どうかお許しください」

 重ねて告げると、彼は肩を落とした。

「……わかりました」

 ネージュは淡く微笑む。

「アリス様」

 改めて呼びかけると、じんわりと喜びが湧き上がる。

「慣れない口調はお疲れになるのではありませんか? 先程も申し上げましたが、普段通りの口調でお話し頂いて大丈夫ですよ」

「……いや、これは、俺のけじめなので」

 アリスティードはきっぱりと言い切った。

「……私は席を外した方が良さそうですね」

 それまで沈黙を守っていたエリックがぽつりとつぶやいた。

「今後については、どうぞお二人でじっくりと話し合われてください。私は出立の準備をして参ります」

 そう告げると、彼は席を立ち、退出する。
 ようやくネージュが動けるようになったので、明日、この町を出て領都の屋敷に戻る予定になっているのだ。

 ネージュは、エリックの背中を見送ってから、ソファの(はす)向かいに座るアリスティードに向き直った。

「……アリス様を狙ったのは、ナゼールだったのでしょうか」

 ぽつりとつぶやくと、アリスティードからは「わかりません」という答えが返ってきた。

「襲撃の狙いがあなたではなく俺だったと聞いた時、エリックは、王家の仕業かと思ったそうです。……だから、色々な可能性を考えて調査をすると」

「王家の、とは私も考えました。結婚式にいらっしゃった時の様子を見るに、フェリクス殿下は、当家に強い関心をお持ちのようでしたから」

 仮にアリスティードが亡くなってネージュが未亡人になったら、恐らく爵位と資産目当てに求婚者が何人も現れる。
 その時にフェリクスが再び名乗り出てきたら、次こそネージュは拒めない。

「俺はナゼールから、あなたが殿下の求婚を断ったのは、侯爵家を好き勝手に食い物にするためだと聞いていたんです……」

 アリスティードの発言に、ネージュは呆気に取られた。

(あの男……!)

 一拍遅れて怒りが込み上げる。
 さすがは弁護士と言うべきか、大した口のうまさである。

「……殿下の求婚を受けていた方が良かった、とは思わないんですか?」

「はい」

 即答すると、アリスティードは目を見張った。

「どうして……」

「それがマルセル様のご遺志でしたから」

「……そうでした。あなたはそういう人だ」

 苦虫を嚙み潰したかのような顔を向けられてしまった。

「後悔はなかったんですか? 俺はあなたにずっと酷い態度を取り続けました」

「はい。受け入れて頂けなかったのは悲しかったですが、世間での私の評判が悪い事は存じ上げておりましたので仕方ないなと」

「殿下と結婚した方が幸せになれたのでは?」

「それはないと思います。あの方は私を蔑んでいらっしゃいますから」

 ネージュの発言に、アリスティードは驚きの表情をした。

「普段の言動を注意深く聞いていればわかりますよ。あの方は特権意識の強い方なので」

 ネージュは小さく息をついた。

「それよりも、マルセル様のお血筋であるあなたを、見守る方がずっといいと思っていました」

「……あなたの行動原理はどこまで行っても祖父なんですね」

「はい。マルセル様は私にとって絶対的な方でしたから」

 ネージュの答えを聞くと、アリスティードは物言いたげな視線をこちらに向けて沈黙した。

「そもそも、マルセル様が王家との縁談を断ったのは、ダニエル様の所業を隠蔽したのと根本的には同じです。この家を王家に奪われたくなかったからです」

 いい機会なので、ネージュはマルセルがフェリクスとの縁談を潰すために、王太后の力を借りた事を話しておく事にした。
 いずれアリスティードは首都の社交界に出なくてはいけない。
 親しくしておくべき相手が誰なのか、少しずつ覚えてもらう必要がある。



「そんな事情が……」

 ネージュの説明を聞き終えると、アリスティードはぽつりとつぶやいた。

「貴族の結婚には王家の承認が必要です。マルセル様のご尽力がなければ、私はフェリクス殿下と結婚していたでしょうね」

「祖父は随分と俺を買ってくれていたんですね。俺がフェリクス殿下より優秀な領主になれるとは限らないのに……」

 アリスティードは不安そうにつぶやいた。

「マルセル様は、ご自身の血を継ぐあなたに、どうしても遺産を渡したかったのだと思います。ですからそんなに気負わないで下さい。領地の経営は、マルセル様が遺された人材を上手く使えばいいのです。エリックが居れば大丈夫ですよ」

 ネージュはアリスティードに向かって微笑んだ。

「……もしかしたら、私はマルセル様にとって、駒の一つだったのかもしれません。手元に引き取る事が叶わなかったあなたに、爵位と資産を渡す為の。最初からそのような構想を描いていらっしゃったかどうかは生憎わかりかねますが……」

 ふと頭に浮かんだ考えをぽつりとつぶやいたら、アリスティードは目を見開いた。

「たとえそうだったとしても、俺はあなたを駒だなんて思いませんから」

 強い口調で言われ、ネージュはわずかに目を見開いた。

「大切にします。それが償いになるとは思いませんが……」

 ややあって告げられたのは、そんな言葉である。

「償いなど不要です」

「……そうですね。過去のあやまちは何をしても消えません」

「あの、違うんです。そもそも私は怒っておりませんし、仕方なかったと思っていますので、そんな風にご自身を責めないで下さい」

「…………」

「大切にする、と仰って頂いて嬉しいです。でもご無理はなさらないで下さいね」

「無理……?」

「はい。人には相性というものがございますから……。もし私がお嫌になって、別の女性に心を奪われた時は遠慮なく仰ってください」

 そう告げると、アリスティードは眉間に深く皺を寄せた。

「俺はそんな不誠実な真似はしません」

 声が怖い。どうやら怒らせてしまったらしい。

「申し訳ありません。何か気に障る事を言ってしまいましたか……?」

 恐る恐る尋ねると、「いえ」と不機嫌そうな返事が返ってきた。

「何となく理解はしていたつもりですが、あなたは自己評価が低すぎます」

 発言の意味がわからなくて、ネージュは首を傾げた。

「……俺はあなたを大切にすると誓いました。少しずつでもわかってもらう努力をします」
「えっと……はい。よろしくお願いします」

 戸惑いながら答えると、何故か深いため息が返ってきた。
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