氷の悪女の契約結婚~愛さない宣言されましたが、すぐに出て行って差し上げますのでご安心下さい~

豊穣祈念祭 01

「はい、完成です」

 ネージュの唇に紅を含んだ筆を滑らせると、ミシェルは満足気に微笑んだ。

「今年で奥様の奉納舞は見納めかと思うと……寂しいですね」
「ありがとう。でも、私は来年のアリス様の奉納舞が楽しみなのよ」

 ネージュがそう告げると、アリスティードをよく思っていないミシェルは、眉間に皺を寄せた。

 だが、彼女の態度は、奉納舞の練習をしてネージュが倒れた日を境に少しだけ変わった。
 ネージュを『奥様』、アリスティードを『旦那様』と呼ぶようになったのだ。
 彼女なりにアリスティードを認めた証拠のように思えて、ネージュは喜ばしいと感じていた。

 早いもので今日は春分、豊穣祈念祭の当日だ。
 ネージュは午前中から領都の中心部にあるアルクス神殿に移動し、潔斎やら着替えやら、神子としての様々な準備と儀式に追われていた。

 アリスティードも神殿にいるのだが、遠目に姿を見かけただけで、今日はまだ一言も言葉を交わせていない。
 彼は通行人の整理やら、警邏隊との調整やら、裏方の仕事で多忙なのだろう。

 祭礼の日には市街地には露店や屋台が出て、近隣の町や村から大勢の人が集まって来る。
 喧嘩があっただのスリが出ただの、ちらほらとトラブルがあったらしき話はネージュの耳にも届いていた。

 ネージュは鏡の中の神子装束を纏った自分を見つめる。
 この衣装を身に纏うのも最後だと思うと感慨深い。
 冷たい印象を他人に与える見た目の自分よりも、春の化身のようなアリスティードが着用した姿の方が、豊穣を願うこの祭礼には相応しいはずだ。

 ネージュはストロベリーブロンドと深緑の瞳を持つ彼が、神子装束をまとう姿を想像して微笑した。
 長身で、身体能力の高い彼が舞う姿はきっと絵になる。

 どうにか舞の準備が間に合って良かった。
 ネージュはそっと左の脇腹に触れた。

 ここには新たな傷が残ってしまったけれど、元々傷痕だらけなのだからどうという事はない。
 ただ、アリスティードが負い目に感じているようなのは申し訳なかった。



   ◆ ◆ ◆



 神子による奉納舞は、日が落ちてから行われる。
 ネージュは神殿内に設けられた壇上に扇を手にして上がると、周囲を見渡した。

 いくつもの篝火が焚かれ、人々の視線がネージュに集中しているのを感じる。
 この張り詰めたような緊張感を味わうのも今日で最後だ。

 ポロン、と伴奏役の神官が竪琴を爪弾いた。それが始まりの合図だ。

 竪琴が奏でる聖譚曲(オラトリオ)に合わせ、ネージュは扇を大きく開く。風を起こす扇は、天空の女神たるアルクスの象徴だ。

 秩序に基づき天体を運行する女神に捧げる舞は、型に始まり型に終わる静謐の舞である。

 手の形、足の運び、一挙手一投足に神経を研ぎ澄まし、神に一年の天候の安定と豊穣を祈るのが神子の役割だ。

 荘厳な聖譚曲に合わせて定められた型をなぞらえていると、不思議な事に、彼我の境界が曖昧になり、自分が自分ではなくなるような感覚を覚える。

 ――だが、唐突にネージュは現実に引き戻された。

 ボン!

 突如大きな音が聞こえ、火柱が市街地の方向から上がるのが見えたせいだ。

(なに……?)

 動揺に舞の型が乱れた。
 しかし、すんでのところで踏み止まる。
 今、奉納舞をやめる訳にはいかない。

 竪琴の音色も僅かに乱れたが、ネージュと同じ心境に至ったのか、奏者の神官はうまく演奏を立て直してくれた。



   ◆ ◆ ◆



 少し時は遡る――。

 神子を務めるネージュに代わり、祭礼を運営する裏方に回ったアリスティードは、雑務に忙殺されていた。

 神殿長や、領都の有力者への挨拶に始まり、祭礼が円滑に進むよう祭具の運搬を手伝ったり、警邏隊との調整を行ったり、思ったよりやる事が多く、また初めての事ばかりなので、周囲の助言を聞きながらどうにか目の前の仕事を片付ける、という状況だった。

 だが、周囲、特に領都の役人の態度は、アリスティードが侯爵家に来たばかりの頃とは大きく変わった。
 どうやら口の軽い使用人が、ネージュとの関係が改善した事を外に漏らしたのが原因らしい。
 全員が全員アリスティードに好意的に変わった訳ではないが、おかげで随分と仕事がやりやすかった。

 とはいえ、人が大勢集まる場所ではトラブルがつきものだ。

 重要な祭礼用具が見当たらなかったり、群衆事故を防ぐための通行制限を行う必要が出てきたり、次から次へと問題が発生する。

「去年のネージュは、これを神子をやりながら捌いたのか……」

 昨年の今頃は、既にマルセルは病に伏せり、外出できる状態ではなかったと聞いている。
 思わずつぶやくと、「いいえ」という答えが近くにいたエリックから返ってきた。

「さすがに神子を務めながらは無理です。現場に指揮監督権を委ねて、必要な時だけ介入されていましたね。ただ、誰にどこまでの権限を移すか、という采配は見事でした」

 ネージュには人を使う才能がある。
 知ってはいたが、それを改めて聞かされると、心の中に焦りが湧き上がった。

 見た目も性格も良く、更に優秀な彼女に自分が勝っているのは血筋しかない。

 どこか憂鬱な気持ちになりながらも、アリスティードは黙々と目の前の仕事を片付けていった。



 やがて日が落ち、神殿から竪琴による聖譚曲が聴こえてきた。奉納舞が始まったのだ。

 その時、アリスティードは神殿内に設けられた警邏隊の詰所にて、祭礼が終わった後の群衆の誘導をどうするのか、隊長から説明を受けていた。

「奥様の様子が気になりますか?」

 隊長からの質問に、アリスティードは固まった。

「……気にならないと言えば嘘になりますが、練習の時に十分に見ていますから」

 どうにか取り繕ったものの、アリスティードは反射的にネージュの姿を思い浮かべていた。

 昨日は、この神殿で祭礼の予行演習が行われたのだが、その時に見た、神子装束を身に着けて奉納舞を舞うネージュの姿が頭の中に焼き付いている。

「少しだけ見に行きませんか? といっても既に舞台前は人だらけで、かなり遠くからになると思いますが……」

 隊長がそう発言した直後だった。

 ボン!

 そんな音が外から聞こえた。

 詰所にいた全員が眉をひそめる。
 ややあって、外からバタバタという大きな足音が聞こえてきたかと思ったら――。

「大変です! 市街地で火事が! 食べ物を売る屋台が突然炎上したとかで……」

 警邏隊員が飛び込んできて、早口でまくし立てた。



   ◆ ◆ ◆



 市街地で火事が起こり、死傷者が出ているとネージュが知らされたのは、奉納舞とそれに続く儀式を終え、神殿の控え室に戻った時だった。

「火災が起こったのは大通りで、人が密集していた場所だったので……」

 ミシェルの報告にネージュは息を呑んだ。

「状況は?」

「申し訳ありません、わかりかねます……。旦那様やエリックさんが警邏隊と一緒に対応にあたられていますが……」

 神殿内部からもかなりの人数が対応の為に出払っているとかで、控え室の周辺は人気がなくがらんとしていた。

「急いで着替えるわ。ミシェルは詳しい状況を確認してきてくれる?」

「はい!」

 ミシェルは元気よく頷くと、控え室を退出した。
 それを見送ってから、ネージュは室内に置かれた大きな鏡の前に移動すると、神子装束の帯に手を掛けた。

 その時である。背後からドアが開く音が聞こえた。
 ミシェルが戻って来たにしては変だ。彼女がノックをせずにドアを開けるなんてありえない。

 ネージュは不審に思いながら振り返った。すると、一人の男性神官が侵入し、無遠慮にもこちらに向かって来るのが見えた。

「何なんですか、あな……」

 ネージュは言葉を最後まで言い切る事ができなかった。
 男性神官の手には拳銃があったからだ。

「お久し振りです。ネージュ様。どうか大人しく私に付いてきて頂けませんか?」

 息を呑んだネージュに向かって男は銃口をこちらに向け、近付きながら声をかけてくる。
 その声に聞き覚えがあったので、ネージュは男の顔をまじまじと見つめた。

「ナゼール……?」

 明るい茶色の髪は黒に、髪型も変わっていたからすぐには気付かなかったが、声も、顔立ちも、特徴的で珍しいオレンジ色の瞳も間違いない。

「ああ、やっとお会いできた」

 そう告げたナゼールの瞳は奇妙な熱を帯びていた。

「何しに来たの……」
「あなたを攫いに」

 そう告げると、ナゼールは空いている左手でネージュの腕を掴んだ。
 その瞬間、ゾクリと鳥肌が立った。

 怖い。気持ち悪い。だけどそれ以上に、堪えきれない怒りがネージュの中に湧き上がる。

 ――力で従えようとする人間に屈するなんて、矜持が許さない。

 ネージュは神子装束の帯に挟んでいた扇を抜くと、大きく一歩踏み出し、ナゼールの首元を狙って突き出した。
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