氷の悪女の契約結婚~愛さない宣言されましたが、すぐに出て行って差し上げますのでご安心下さい~
豊穣祈念祭 02
奉納舞用の聖別された扇を武器として使う事に、わずかなためらいがあったのがいけなかったのだろうか。ネージュの突きは、ナゼールの首を掠めただけで終わった。
しかし、彼に掴まれた腕を振りほどくのには成功する。
「ネージュ様……?」
戸惑いの表情を見せるナゼールに向かって、ネージュは扇を構えた。
(せめてこれが鉄扇だったら……)
鉄扇は、貴婦人に好まれる護身用の仕込み武器である。
だが、生憎今手にしているのは祭事用の木製の扇なので心許ない。
「抵抗はやめて下さい、ネージュ様。あなたを傷付けたくはないんです」
(だから何?)
銃口を突きつけながら脅迫してくるナゼールに、ネージュは冷ややかな眼差しを向けた。
銃が怖くないと言えば嘘になる。だけど、撃たれて命を失う可能性以上に、他人に自分の意思を捻じ曲げられる方が耐えられない。
ネージュは無言で再び突きを繰り出した。
今度の狙いは銃を持つ右手首だ。
しかし、打ち据える事には成功したものの、動きにくい神子装束を身に着けていたのが裏目に出て、袖を取られて腕をねじり上げられてしまった。
「意外に勇ましいですね。いつも冷静で穏やかなあなたにこんな一面があったとは……」
ナゼールはネージュの体をそのまま床に押し倒した。
必死に抗おうと藻掻いてみるが、根本的な力の差があるせいでびくともしない。
悔しい。単純な力比べになると、どうしたって男には敵わない。
せめて武器があれば。身軽な格好だったら。
ネージュは唇を噛んだ。
「ずっとこうしてあなたに触れたかった……」
ナゼールの吐息が首筋にかかり、ネージュはおぞましさに震えた。
すぐにでも振りほどいて洗いたい。しかし、がっちりと押さえ込まれているせいで全く身動きが取れない。
「あなたの狙いは私……? だからアリス様を殺そうとしたの……?」
「……愛称で呼ぶほど親しくなったんですか」
ぐっとこちらを押さえつける力が強くなった。肺が圧迫され、息苦しさにネージュは顔をしかめる。
「視察の時の襲撃の事を仰っているのなら、私ではありません。むしろそのせいで迷惑を被りました。計画が崩れましたからね……」
「計画……?」
「はい。アリスティードに冷遇され、屋敷を去ったネージュ様を、慰めて特別な関係になるという計画です」
ネージュはナゼールの発言に呆気に取られた。
「平民の私があなたを手に入れようと思ったら、それしかないじゃないですか……。アリスティードは私にとって必要な駒だ。いなくなったら、別の高貴な男があなたに求婚しに来る」
言われてみれば確かにそうだ。
アリスティードが亡くなれば、ネージュはレーネ侯爵家の相続人に戻る。
この国の法律では、女が爵位を継ぐのは不可能ではないが、要件を満たすのがかなり難しいので、婿を取るのが一般的である。
ネージュが未亡人になった時、真っ先に求婚しに現れるのは、恐らくフェリクス王子だ。彼が求婚者として現れたら、次こそ断れない。
「分の悪い賭けなのはわかっていました。噂や嘘に惑わされず、あなたの本質を見抜く男だったら諦めようとも。……でも、ダメでした。あなたから離れてよくわかりました。どんな手を使ってでもあなたが欲しい。愛しています、ネージュ様」
ナゼールは、熱に浮かされたようにつぶやくと、ネージュの項に口付けてきた。
その瞬間全身に悪寒が走った。吐息とは比べ物にならないほどの嫌悪感が湧き上がる。
十近く年上の男から見せられた突然の執着は、ネージュにとって恐怖以外の何ものでもなく、触られたところの全てが気持ち悪かった。
(どうしてこんな……)
じわりと涙が滲んで視界が歪む。
――その時だった。
大きな破砕音とともに窓ガラスが破られ、人影が室内に飛び込んできた。
ネージュは目を見開いてそちらに視線を向けた。背後のナゼールからも動揺が伝わってくる。
人影は一目散にナゼールに突進し、ネージュから引き離した。
かと思うと、殴打の音だろうか。鈍い音が聞こえてくる。
ネージュが体を起こす間に、人影は鮮やかな体捌きでナゼールを制圧していた。
更に彼は、ナゼールの右手を捻りあげると、銃を奪い取る。
「アリス様……?」
ネージュは呆然とつぶやく。
窓からの侵入者はアリスティードだった。
こちらに向けられたマルセルそっくりの深緑の瞳に、助かったのだと実感する。
「何か縛るものを!」
切羽詰まった表情で言われ、ネージュは慌てて神子装束の帯を解いた。紐状のものというと、それしか思いつかなかったのだ。
アリスティードはひったくるように帯を受け取ると、制圧したナゼールを後ろ手に縛り上げた。
そのナゼールは、殴られた時に気絶したのか、白目をむいて泡を吹いていた。
アリスティードはそんなナゼールを一瞥してから、放心状態でその場に座り込んでいたネージュに向き直る。
「ネージュ、怪我は!」
「大丈夫です。少しぶつけたくらいで。でも、どうして……? 火災の対応にあたられていたのでは……?」
「あらかた落ち着いたからこっちに。ネージュの神子姿を見る機会だからってエリックが……」
アリスティードはネージュに近寄って来たかと思ったら、目を逸らした。
「その、帯が……。目のやり場に困るので……」
その発言に、ネージュは帯を解いたせいで前がはだけている事に気付き、慌てて前を掻き合わせた。
アリスティードは、上着を脱ぐとネージュの肩にかけてくれる。
彼が愛用する香水の匂いと、ほのかに残る温もりにほっとした。
「近道をしようと庭を通ったら、カーテンの隙間からネージュが襲われているのが見えたんです。なんとか間に合ったようでよかった……」
アリスティードは安堵の表情でその場に膝を突き、ネージュと視線を合わせてきた。
「えっと……、私の神子装束は、練習の時に何度もご覧になってますよね……?」
「練習と本番では違います。今日の方がずっと華やかで綺麗です」
褒められて、ネージュは顔が熱くなった。
ナゼールと揉み合いになったから、髪も服もぐしゃぐしゃになっているに違いないのに。
「……ひとまず別の部屋に移りませんか? こいつと同じ部屋にいるのは嫌ですよね?」
その視線の先にいるのは、昏倒したナゼールだ。
確かにその通りだったので、ネージュは頷いた。
しかし、彼に掴まれた腕を振りほどくのには成功する。
「ネージュ様……?」
戸惑いの表情を見せるナゼールに向かって、ネージュは扇を構えた。
(せめてこれが鉄扇だったら……)
鉄扇は、貴婦人に好まれる護身用の仕込み武器である。
だが、生憎今手にしているのは祭事用の木製の扇なので心許ない。
「抵抗はやめて下さい、ネージュ様。あなたを傷付けたくはないんです」
(だから何?)
銃口を突きつけながら脅迫してくるナゼールに、ネージュは冷ややかな眼差しを向けた。
銃が怖くないと言えば嘘になる。だけど、撃たれて命を失う可能性以上に、他人に自分の意思を捻じ曲げられる方が耐えられない。
ネージュは無言で再び突きを繰り出した。
今度の狙いは銃を持つ右手首だ。
しかし、打ち据える事には成功したものの、動きにくい神子装束を身に着けていたのが裏目に出て、袖を取られて腕をねじり上げられてしまった。
「意外に勇ましいですね。いつも冷静で穏やかなあなたにこんな一面があったとは……」
ナゼールはネージュの体をそのまま床に押し倒した。
必死に抗おうと藻掻いてみるが、根本的な力の差があるせいでびくともしない。
悔しい。単純な力比べになると、どうしたって男には敵わない。
せめて武器があれば。身軽な格好だったら。
ネージュは唇を噛んだ。
「ずっとこうしてあなたに触れたかった……」
ナゼールの吐息が首筋にかかり、ネージュはおぞましさに震えた。
すぐにでも振りほどいて洗いたい。しかし、がっちりと押さえ込まれているせいで全く身動きが取れない。
「あなたの狙いは私……? だからアリス様を殺そうとしたの……?」
「……愛称で呼ぶほど親しくなったんですか」
ぐっとこちらを押さえつける力が強くなった。肺が圧迫され、息苦しさにネージュは顔をしかめる。
「視察の時の襲撃の事を仰っているのなら、私ではありません。むしろそのせいで迷惑を被りました。計画が崩れましたからね……」
「計画……?」
「はい。アリスティードに冷遇され、屋敷を去ったネージュ様を、慰めて特別な関係になるという計画です」
ネージュはナゼールの発言に呆気に取られた。
「平民の私があなたを手に入れようと思ったら、それしかないじゃないですか……。アリスティードは私にとって必要な駒だ。いなくなったら、別の高貴な男があなたに求婚しに来る」
言われてみれば確かにそうだ。
アリスティードが亡くなれば、ネージュはレーネ侯爵家の相続人に戻る。
この国の法律では、女が爵位を継ぐのは不可能ではないが、要件を満たすのがかなり難しいので、婿を取るのが一般的である。
ネージュが未亡人になった時、真っ先に求婚しに現れるのは、恐らくフェリクス王子だ。彼が求婚者として現れたら、次こそ断れない。
「分の悪い賭けなのはわかっていました。噂や嘘に惑わされず、あなたの本質を見抜く男だったら諦めようとも。……でも、ダメでした。あなたから離れてよくわかりました。どんな手を使ってでもあなたが欲しい。愛しています、ネージュ様」
ナゼールは、熱に浮かされたようにつぶやくと、ネージュの項に口付けてきた。
その瞬間全身に悪寒が走った。吐息とは比べ物にならないほどの嫌悪感が湧き上がる。
十近く年上の男から見せられた突然の執着は、ネージュにとって恐怖以外の何ものでもなく、触られたところの全てが気持ち悪かった。
(どうしてこんな……)
じわりと涙が滲んで視界が歪む。
――その時だった。
大きな破砕音とともに窓ガラスが破られ、人影が室内に飛び込んできた。
ネージュは目を見開いてそちらに視線を向けた。背後のナゼールからも動揺が伝わってくる。
人影は一目散にナゼールに突進し、ネージュから引き離した。
かと思うと、殴打の音だろうか。鈍い音が聞こえてくる。
ネージュが体を起こす間に、人影は鮮やかな体捌きでナゼールを制圧していた。
更に彼は、ナゼールの右手を捻りあげると、銃を奪い取る。
「アリス様……?」
ネージュは呆然とつぶやく。
窓からの侵入者はアリスティードだった。
こちらに向けられたマルセルそっくりの深緑の瞳に、助かったのだと実感する。
「何か縛るものを!」
切羽詰まった表情で言われ、ネージュは慌てて神子装束の帯を解いた。紐状のものというと、それしか思いつかなかったのだ。
アリスティードはひったくるように帯を受け取ると、制圧したナゼールを後ろ手に縛り上げた。
そのナゼールは、殴られた時に気絶したのか、白目をむいて泡を吹いていた。
アリスティードはそんなナゼールを一瞥してから、放心状態でその場に座り込んでいたネージュに向き直る。
「ネージュ、怪我は!」
「大丈夫です。少しぶつけたくらいで。でも、どうして……? 火災の対応にあたられていたのでは……?」
「あらかた落ち着いたからこっちに。ネージュの神子姿を見る機会だからってエリックが……」
アリスティードはネージュに近寄って来たかと思ったら、目を逸らした。
「その、帯が……。目のやり場に困るので……」
その発言に、ネージュは帯を解いたせいで前がはだけている事に気付き、慌てて前を掻き合わせた。
アリスティードは、上着を脱ぐとネージュの肩にかけてくれる。
彼が愛用する香水の匂いと、ほのかに残る温もりにほっとした。
「近道をしようと庭を通ったら、カーテンの隙間からネージュが襲われているのが見えたんです。なんとか間に合ったようでよかった……」
アリスティードは安堵の表情でその場に膝を突き、ネージュと視線を合わせてきた。
「えっと……、私の神子装束は、練習の時に何度もご覧になってますよね……?」
「練習と本番では違います。今日の方がずっと華やかで綺麗です」
褒められて、ネージュは顔が熱くなった。
ナゼールと揉み合いになったから、髪も服もぐしゃぐしゃになっているに違いないのに。
「……ひとまず別の部屋に移りませんか? こいつと同じ部屋にいるのは嫌ですよね?」
その視線の先にいるのは、昏倒したナゼールだ。
確かにその通りだったので、ネージュは頷いた。