氷の悪女の契約結婚~愛さない宣言されましたが、すぐに出て行って差し上げますのでご安心下さい~

祭礼のあと 03

 ――痛い。

 五か月前まで軍人だった男に渾身の力で殴り付けられたのだ。
 結果としてナゼールは左の奥歯二本を失い、顔が腫れ上がって元の人相がわからない状態へと変貌していた。

 殴り殺されなかっただけマシと思うべきだろうか。
 ナゼールは牢のベッドに座り込むと苦笑いを浮かべた。

 自分はこれからどうなるのだろう。

(いや、どうでもいい)

 自分は一世一代の賭けに負けたのだ。
 ただ一人、人生の全てを賭けてでも欲しいと思った女性を手に入れるための大博打に。



 その女性――ネージュに初めて出会ったのは、法曹学校を卒業して弁護士資格を取得し、父の後継者としてこの屋敷を訪れた時だ。
 当時、確か彼女は十三歳だったはずだ。その時から恐ろしい程に整った顔立ちの少女だった。

 彼女への感情が特別なものに変わったのはいつなのか、ナゼールにもわからない。

 最初は少女趣味なのかと心配になったし、九歳も年が離れていると自分を戒めたが、ネージュが成人した時には開き直った。
 貴族間の政略結婚ならこれくらいの年齢差は珍しくない。

 だが、彼女は侯爵家に正式に養子に迎えられたれっきとした貴族令嬢で、こちらはそれなりに裕福とはいえ一介の平民だ。

 彼女が孤児のままなら。もしくは自分が侯爵家と釣り合う貴族の出身だったらと、つい考えてしまう。
 そんな仮定は無意味で、身分という隔たりは決して消えない。だから表には出すまいと誓っていた。なのに――。



 コツコツという靴音が聞こえ、ナゼールは顔を上げた。
 何事かと思ったらドアの前で止まり、今一番会いたくない人物が扉から顔を覗かせた。

 ナゼールが欲しくて欲しくてたまらないものを手に入れた幸運な男――アリスティードだ。
 背後にはエリックを従えている。

「いい顔になったじゃないか、ナゼール」

 粗野で尊大な物言いに苛立ちが募る。
 レーネ侯爵家の血を引くとはいっても半分は平民で、育ちの悪さが所作に現れている男だ。
 顔立ちが若い頃のマルセルにそっくりなのがまた腹が立つ。そのせいで、マルセルの信望者であるネージュは、この男を受け入れたのだから。

 こんな男がネージュを手に入れただなんて。
 嫉妬でどうにかなりそうだった。

「お陰様で」

 内心の憎悪を隠し、ナゼールは悠然とした態度を心掛けて返事をした。
 感情をあらわにしないのは、この男の前でだけは醜態を晒したくないという、なけなしの矜恃を総動員した結果だ。

「その顔でも喋れるんだな」
「口を動かす度に激しく痛みますよ。食事を摂るのも一苦労です」

 ここに収容されて三日が経つが、出てきた食事はと言えば、嫌がらせのように固い黒パンと味の薄いスープだった。

「出してやってるだけありがたく思え。囚人一人食わすのにも金が要るんだ」

「飢え死にさせるつもりは無いようで安心しました」

「そうだな。お前には色々と確認したい事があるからな」

「どうぞ、何でもお話しますよ」

「へえ、随分物分かりが良い」

「賭けに負けてしまいましたからね。こうなった以上、何もかもどうでもいいんですよ」

 ナゼールは左頬の激痛を堪え、自嘲の笑みを浮かべた。

「何故当家を裏切るような真似をしたんですか」

 口を開いたのは、アリスティードの背後で沈黙を守っていたエリックだ。
 ネージュを娘のように可愛がり、マルセルに忠誠を誓っていた彼の目は、静かな怒りを(たた)えている。

「夢を見てしまったんですよ。アリスティード様からならネージュ様を奪えるのではないかと」

「どうしてそんな馬鹿な真似を……」

 エリックは呆れ返った顔で絶句している。

「そうでも無かったですよね。現に途中までは上手くいっていた」

 ナゼールはフッと馬鹿にした目をアリスティードに向けた。
 ネージュの悪い噂を利用し、ある事ない事吹き込んだのは事実だが、ナゼールに言わせれば騙される方が悪いのだ。

「ジャンヌは今どこだ」

 アリスティードは苛立った様子で尋ねてきた。

「わかりません。あの女は金で雇ったお針子崩れの娼婦ですから。行き先は私も知らないんですよ。今頃手に入れた大金で国外に出て豪遊でもしてるんじゃないでしょうか? ……ああ、でもなかなかの嗅覚の持ち主で助かりましたよ。視察中に襲われたそうですね、侯爵閣下。その時のあなたの態度から不穏な気配を察知して、いち早く私に知らせてくれましたからね」

 ナゼールがすんでのところで逃げられたのは、ジャンヌが送ってきた電報のおかげだ。

『気付かれたかも J』

 そう書かれた簡素な報せに、ナゼールも嫌な予感を覚えたので、何もかもを捨てて身を隠したのだった。

「まったく、どこの誰か知りませんけど余計な事をしてくれましたよ。襲撃さえなければ、まだあなたは私に騙されてくれていただろうに……」

「襲撃の首謀者はお前じゃないって言いたいのか」

「私ではありません。ネージュ様にも申し上げましたが、あなたが生きていた方が僕にとっては都合がいいですからね」

 断言すると、アリスティードは沈黙した。

「せいぜいお気をつけて。ネージュ様は魔性だ。心酔している男は私だけじゃない」

 フェリクス王子にとある伯爵家の子息――何人か思い当たる顔がある。
 目の前のこの男も、既にネージュに惹き付けられているのは顔を見れば明らかだ。

 苦しめばいい。奪われるかもしれない恐怖に。
 アリスティードが死ねば、まず間違いなく王家は手を伸ばしてくるし、対抗して動こうとする貴族もいるかもしれない。

「……口先だけで暗躍してたくせに、随分荒っぽい手段に出たな。そのまま潜伏してれば捕まらなかっただろうに……」

「ネージュ様の周囲が手薄になる機会はそうそうない。多少の危険を冒してでも手に入れたかった。それだけです。ああ、屋台を炎上させたのも私ですよ。そうすれば、神殿周りからは更に人が減ると思ったので」

「ペラペラとよく喋る……。聞かれもしないのにそこまで喋る理由は何だ?」

「さあ……」

 賭けに負けた今は生きていても仕方ないと思っているからだ。だが、本音を伝えるのは(しゃく)だったのでナゼールは惚けた。
 そして、嘲笑を浮かべて囁く。

「計画が完璧にうまくいったとしても、ネージュ様の心が得られたかはわかりませんけどね。あの方の心には常に前侯爵閣下がいますから」

 ピクリとアリスティードの表情が動いたのを見て、ナゼールはほくそ笑んだ。

「アリスティード様、あなたが受け入れられたのは、マルセル様に似た容姿のお陰だ。羨ましいですよ。血縁関係だけでするりとあの氷の心の中に入り込んだのですから」

(傷付け)

 ナゼールは悪意をもって囁いた。

「可哀想に。あなたはただの身代わりだ。死者を超えるのは難しいですよ。思い出の中で美化されていきますからね」

 もうこの男はネージュに触れたのだろうか。
 考えるだけでも嫉妬でおかしくなりそうだ。
 
 だからナゼールは考えうる限りの語彙を使って毒を紡いだ。
 少しでも目の前の男を傷付けるために。



   ◆ ◆ ◆



「最後まで冷静でいらっしゃいましたね。ご立派です」

「逆上したって意味がないから我慢しただけだ」

 ナゼールの尋問を終え、地下牢から戻る道すがら、エリックから話しかけられ、アリスティードは憤りをあらわに答えた。

「あの野郎、挑発しやがって……」

 アリスティードはつぶやくと、壁に拳を叩きつけた。
 怒りと苛立ちがおさまらない。

 歪んだ欲望でネージュを傷付けておきながら、魔性に惑わされたからだと言わんばかりのふてぶてしい態度も、アリスティードに向かってマルセルの身代わりだと言い放った発言も、何もかもが許せなかった。

 ナゼールに襲われた日の翌朝、明るくなってから、腕の中で眠るネージュを見てアリスティードは絶句した。
 あの男に触れられたと彼女自身が申告した部分が、真っ赤になっていたのだ。
 ミシェルによると、嫌悪感から必死に洗い落とそうと擦っていたらしい。

 また、昨夜も悪夢を見てうなされるネージュの姿を見ているので、どうしたって私怨が湧く。

「エリック、証言の裏を取って欲しい」

「勿論です。しかしあの男の発言が全て真実だったとしたら、旦那様を襲った連中の黒幕は別にいるという事に……」

「引き続き警戒するしかないだろうな」

 黒幕はやはりフェリクス王子なのだろうか。
 結婚式でアリスティードを貶めてきた彼の姿が脳裏に浮かび、別の意味での苛立ちが湧き上がった。
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