悲劇のフランス人形は屈しない3
第一章 空白期間

中間の世界

気がつくと、見覚えのない場所で真っ赤なソファーに座っていた。
天然の木目が美しい目の前の壁に、大きな黒文字で〈待合室〉と書かれている。
(ここ、どこ…?)
横隣を見ると、私と同い年くらいの男女が数人、無言で座っていた。ファッション雑誌を食い入るように読んでいる女性もいれば、着ているワイシャツの袖を異様にチェックしている男性もいた。
その時、左手にあるドアが勢いよく開いた。びくっと肩を強張らせ、ドアの方に目を向ける。
「やってらんねーよ!」
まだ20代半ばだろうか、背中に大きな虎の絵が描かれたジャケットを着た青年が、大声でわめきながら出て来た。しかし、目の前からふっと姿を現した、黒のスーツに身を包んだ男性二人に両腕を掴まれると、声の音量が少し小さくなった。
「な、なんだよ!」
虎の青年はいきなり身動きが出来なくなり焦った様子を見せたが、静かに座っている私たちの視線に気がつくと、チッと舌打ちをした。
「馬鹿どもが、見てんじゃねーよ!クソが」
「はい。次の方~」
男性の大声にかぶせるようにして、部屋の中から明るい声が響いた。ドアは閉じているのに、まるでスピーカーを通しているかのようにハッキリと聞こえて来る。
こんなヤンキー騒ぎの後に続きたい人などいるのかと隣を見るが、みんなが私を凝視している。
(え、なぜ…?)
しばらくの間、無言で私と残りの人たちは見つめ合っていた。
「次の方?」
少し苛立ちを含んだ声が部屋の中から聞こえてきた。
私は一度ドアに目を向け、それから座っている男女を懇願するように振り返った。しかし全員の瞳が“お前が行け”と言っている。
私は渋々腰を浮かし、ぴったりと閉じている木製の扉の前に立った。視線が背中に突き刺さるのを感じながら、二回ほどノックし、私は金色のドアノブをゆっくりと回した。
部屋の中は、外からでも予想出来るほどにシンプルな造りになっていた。部屋は広いものの、無駄な装飾はされておらず、頭上にあるシャンデリアだけが異色を放っている。壁には、有名人なのか大柄な女性の絵が飾られていた。
「そこ、座って」
高く積まれた書類の後ろから、指示される。
私は灰色の絨毯の上をゆっくり歩き、長机の前に置いてある一人用のソファーにおそるおそる腰を下ろした。腰が沈みこむほどにふかふかした椅子だった。
机の端に置いてある、薄緑色のオブジェが風もないのにずっと回転している。私は意味もなく、なぜか惹きつけられる奇妙なオブジェを見つめていた。
「うんうん。面白いね」
書類の向こうから何やら呟き声が聞こえる。そして、目の前の大量の書類を思いっきり横にスライドさせた。
「え!」
私は思わず手を伸ばして落ちそうな書類を受け止めようとした。しかし、驚いたことに書類は床につく前に全て姿を消した。かろうじて掴んだ書類も手の中から消えて行った。
「良い反射神経してるね。杉崎さんは」
私は顔を上げた。
目の前の男の子はどう見ても、10歳くらいにしか見えなかった。丸っとした顔に横を刈り上げた黒髪。サスペンダーをつけているため、山なりに膨らんだお腹が目立っている。
「杉崎凛子、26歳。倉庫作業中に地震が来て、荷物の下敷きになったと。後輩の身代わりになったのね」
手元の紙を見ながら、少年は呟くように言った。
私は無意識に膝の上に置いていた手に力が入っていた。
「あの、ここはどこなのでしょう?」
書類から顔を上げた赤い目の少年と視線が交差した。不自然なほどに赤い光を放つ瞳だったが、不思議と怖くはなかった。
「ここはどこか。んーいい質問だね。しいて言葉にするなら、どこでもない場所かな」
言葉の意味が分からず私は、少年をじっと見つめた。
「天国でも地獄でもない。この世でもあの世でもない。“中間の世界”」
「で、でも私は、死んだんですよね?」
男の子は椅子に寄りかかると腕を組んだ。少年の倍はある革の椅子がぎしっと鳴った。
「確かに今、君の魂は体を離れている。それを死と呼ぶなら、そうだね」
「それで私はこれからどうなるんですか?ここで裁きを受けるんですか?」
「裁き?」
少年の瞳が大きく見開いた。そしていきなり大声で笑い出した。
「なんで?誰かが言ってたの?」
「い、いえ。でもさっきの人がどこかに連れて行かれましたし…」
「ああ~」
ぷっくりとした小さな手で頬をつきながら少年は言った。
「彼は生前の行いが悪くてね。ここで100年修行をするか、今すぐ生まれ変わりたいか聞いたんだ。人間は無理だけどね」
「100年の修行…?生まれ変わる…?」
背筋に冷たいものが流れ、唇が渇いて来た。
「ま、修行するって言っても、雑用をこなすだけ。生前、彼が嫌いだった仕事を100年間やるって感じ。彼の場合は、トイレや下水の掃除とか、金属の錆をひたすら落とすとか、国語辞典を全ページ書き写すとかね。もちろん、輪廻転生も選べるんだよ。でも彼の場合は、選べるものも多くない。昆虫とか、まあ良くてせいぜい蛙かな」
「か、かえる…?」
情報量が多くて頭が処理出来ない。
「うん、蛙。それも嫌だって言うから、別の世界に送ることにした」
そう言って彼は下を指さした。
「彼みたいなタイプをうまく扱える奴がいるからね」
これ以上は聞いてはいけないような気がして、私は口をつぐんだ。目の前の無害そうな子供がいきなり機嫌を損ねて「君は、セミね」って言い出したらと考えるだけで心臓が凍る。
私の顔が青ざめたのが分かったのか、少年はにっこりと笑った。
「君は大丈夫。100年の修行もないし、下に送ったりもしない。ただ、難しい選択をすることにはなると思う」
「選択…?」
緊張で全身の筋肉が硬直した。
少年は手元の書類に視線を落としながら、頷いた。
「君に与えられた選択は、杉崎凛子として生きるか、白石透として生きるか。この二択だね」
頭を石で殴られたような衝撃を覚えた。
「白石透…?あれは、夢じゃ…」
喉がカラカラに乾き、声を絞り出すのに苦労した。
「はい、水」
どこから出したのか、少年がガラスのコップに入った水を差しだした。私は受け取ると一気に飲み干した。
「落ち着いてね」
少年はそう言うと、椅子からぴょんと飛び降り、壁のカーテンを引いた。てっきり窓があると思ったが、カーテンの後ろから出て来たのは小さな扉だった。少年はターコイズブルーのドアを押し、その向こうに声を掛けた。
「おいで」
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