悲劇のフランス人形は屈しない3
「あ、戻って来た!」
教室のドアを開けると、蓮見が手を挙げた。天城は読んでいた本から顔を上げ、黒板にチョークで落書きをしていた榊は手を止めた。五十嵐は、私が教室を出た時と変わらず机に突っ伏したまま動かない。
原作に描いてあった通り、高校3年生になると主要キャラクターは全員同じクラスになった。しかし、一つだけ変わった部分があった。裏で西園寺が糸を引いていたとは言え、虐めに加担していた藤堂は、漫画では同じクラスだったが、事実別のクラスに変更されていた。
私は3-Aと書かれた黒板の前を通り、自分の席に置いていた鞄を肩にかけた。新学期が始まってまだ数週間しか経っていないが、教科書が盗まれることも、机にイタズラ書きをされることもなくなった。しかし念のため、除光液と布巾は、まだロッカーに常備してある。
「どこの大学か決めた?」
蓮見が私に近づいて来た。私は一瞬迷って口を開きかけたが、首を横に振った。
「秘密」
「えー!なんで!」
「口にすると、落ちる気がするから」
「なにそれー!」
口を尖らせている蓮見に心の中で謝罪する。
今まで何度も助けてくれた皆に感謝の気持ちはあるものの、大学に入ったら心機一転してまっさらな状態で大学生活を始めたい。その為には、知り合いがいては困る。そして、難関校とはいえ、蓮見や天城なら簡単に入試をパスしそうで、言えない。
(大学名を言ったところで、同じところにしようとはならないとは思うけど…)
杞憂だとは分かっていても、どこかまだバリアを張ってしまう。
「口に出したら落ちるって。お前、そんな変なジンクス信じてるの?」
いつの間にか背後にいた榊が、笑いながら言った。
「受験の日に、合格って書いた“消しゴム”を持って行きそうだな」
私は榊を振り返った。
「な、何でそれを…!」
実際、今までに何度もそのジンクスに助けられたことがある。そのおかげで、高校、大学と全て一発合格してきた。もちろん今回も、消しゴムに〈合格〉と書いて受験に臨むつもりだ。
「マジだったのかよ!」
私の背中を容赦なくバシバシ叩きながら、榊は爆笑している。
「・・・帰る」
鞄を背負い直し、私は言った。
「おい、拗ねるなって」
未だ半笑いの榊も私に倣い、何も入ってなさそうな鞄を手に取った。
「旭、起きろ~。帰るぞ」
蓮見が五十嵐を揺り起こしている様子を見て、はたと気づいた。
(もしかして待っててくれたとか…?)
時計を見ると、下校のチャイムが鳴ってからだいぶ時間が立っている。
私の「帰る」という一言で皆が立ち上がり、帰る支度をしている様子を見ると、奇妙な感覚が体を襲った。
(なんだろう、これ。なんて言うんだ…)
全身がむずがゆい。嬉しさのような、それでいて恥ずかしい…
「ああ。過保護…か」
言葉がぽろりと口から出た。
「せんせー!俺たちの優しさを、過保護といっている輩がここにいまーす!」
榊が私の腕を無理やり、上に上げる。
「それは、けしからんねー」
蓮見が腕を組んで言った。
「そういう輩には、お仕置きが必要だな」
「全員の荷物を持たせるってどうですかー?」
「いい案だねぇ。さ、白石君、皆の荷物を持ちたまえ」
私は榊の手から逃れると、小芝居を打っている二人を無視して教室を出た。後ろから騒ぎながらついて来る二人を見て、やれやれと首を振る。
(やはり大学生活は平穏であってほしい)
「透」
声をかけられた方を振り向くと、五十嵐が隣に追いついてきた。
「僕、卒業したら海外の大学行くから」
「そうなの?」
長い前髪の下から時折のぞく瞳が、悲しそうに細められた。
「本当は日本にいたいんだけど。親の推薦する先生がフランス人だから」
「そっか」
五十嵐が天才ピアニストだということをすっかり忘れていた。どこか諦めた様子を見ると、有名な音楽一家に生まれているせいで、親からのプレッシャーが強いのだろう。
普段より一層、哀愁を漂わせている五十嵐に私は思ってもいないことを口走った。
「寂しくなるね」
五十嵐は驚いたようにこちらを見てから、私の手を取った。
「一緒に来る?」
「行かない」
そう言ったのは私ではなく天城だった。
五十嵐から私の手をもぎとると、眉間に皺を寄せて言った。
「寂しいのは、コイツだけじゃない」
そのセリフを聞いて、一瞬ぽかんとした五十嵐だが、すぐさま天城に抱き着いた。
「優しいな。海斗は、ほんと」
「離れろ」
「えー」
「暑苦しい」
「えー。嬉しいくせに」
目の前でイチャイチャし始めた二人を横目に、後ろを振り返る。先ほどまで大声で騒いでいた蓮見と榊は、今やスマホのゲーム対戦をしながら楽しんでいる。
この光景があと1年で見納めだと思うと、心のどこかで悲しんでいる自分がいた。
(あと、1年。思いっきり楽しもう)
私はそう決心して、足を進めた。
教室のドアを開けると、蓮見が手を挙げた。天城は読んでいた本から顔を上げ、黒板にチョークで落書きをしていた榊は手を止めた。五十嵐は、私が教室を出た時と変わらず机に突っ伏したまま動かない。
原作に描いてあった通り、高校3年生になると主要キャラクターは全員同じクラスになった。しかし、一つだけ変わった部分があった。裏で西園寺が糸を引いていたとは言え、虐めに加担していた藤堂は、漫画では同じクラスだったが、事実別のクラスに変更されていた。
私は3-Aと書かれた黒板の前を通り、自分の席に置いていた鞄を肩にかけた。新学期が始まってまだ数週間しか経っていないが、教科書が盗まれることも、机にイタズラ書きをされることもなくなった。しかし念のため、除光液と布巾は、まだロッカーに常備してある。
「どこの大学か決めた?」
蓮見が私に近づいて来た。私は一瞬迷って口を開きかけたが、首を横に振った。
「秘密」
「えー!なんで!」
「口にすると、落ちる気がするから」
「なにそれー!」
口を尖らせている蓮見に心の中で謝罪する。
今まで何度も助けてくれた皆に感謝の気持ちはあるものの、大学に入ったら心機一転してまっさらな状態で大学生活を始めたい。その為には、知り合いがいては困る。そして、難関校とはいえ、蓮見や天城なら簡単に入試をパスしそうで、言えない。
(大学名を言ったところで、同じところにしようとはならないとは思うけど…)
杞憂だとは分かっていても、どこかまだバリアを張ってしまう。
「口に出したら落ちるって。お前、そんな変なジンクス信じてるの?」
いつの間にか背後にいた榊が、笑いながら言った。
「受験の日に、合格って書いた“消しゴム”を持って行きそうだな」
私は榊を振り返った。
「な、何でそれを…!」
実際、今までに何度もそのジンクスに助けられたことがある。そのおかげで、高校、大学と全て一発合格してきた。もちろん今回も、消しゴムに〈合格〉と書いて受験に臨むつもりだ。
「マジだったのかよ!」
私の背中を容赦なくバシバシ叩きながら、榊は爆笑している。
「・・・帰る」
鞄を背負い直し、私は言った。
「おい、拗ねるなって」
未だ半笑いの榊も私に倣い、何も入ってなさそうな鞄を手に取った。
「旭、起きろ~。帰るぞ」
蓮見が五十嵐を揺り起こしている様子を見て、はたと気づいた。
(もしかして待っててくれたとか…?)
時計を見ると、下校のチャイムが鳴ってからだいぶ時間が立っている。
私の「帰る」という一言で皆が立ち上がり、帰る支度をしている様子を見ると、奇妙な感覚が体を襲った。
(なんだろう、これ。なんて言うんだ…)
全身がむずがゆい。嬉しさのような、それでいて恥ずかしい…
「ああ。過保護…か」
言葉がぽろりと口から出た。
「せんせー!俺たちの優しさを、過保護といっている輩がここにいまーす!」
榊が私の腕を無理やり、上に上げる。
「それは、けしからんねー」
蓮見が腕を組んで言った。
「そういう輩には、お仕置きが必要だな」
「全員の荷物を持たせるってどうですかー?」
「いい案だねぇ。さ、白石君、皆の荷物を持ちたまえ」
私は榊の手から逃れると、小芝居を打っている二人を無視して教室を出た。後ろから騒ぎながらついて来る二人を見て、やれやれと首を振る。
(やはり大学生活は平穏であってほしい)
「透」
声をかけられた方を振り向くと、五十嵐が隣に追いついてきた。
「僕、卒業したら海外の大学行くから」
「そうなの?」
長い前髪の下から時折のぞく瞳が、悲しそうに細められた。
「本当は日本にいたいんだけど。親の推薦する先生がフランス人だから」
「そっか」
五十嵐が天才ピアニストだということをすっかり忘れていた。どこか諦めた様子を見ると、有名な音楽一家に生まれているせいで、親からのプレッシャーが強いのだろう。
普段より一層、哀愁を漂わせている五十嵐に私は思ってもいないことを口走った。
「寂しくなるね」
五十嵐は驚いたようにこちらを見てから、私の手を取った。
「一緒に来る?」
「行かない」
そう言ったのは私ではなく天城だった。
五十嵐から私の手をもぎとると、眉間に皺を寄せて言った。
「寂しいのは、コイツだけじゃない」
そのセリフを聞いて、一瞬ぽかんとした五十嵐だが、すぐさま天城に抱き着いた。
「優しいな。海斗は、ほんと」
「離れろ」
「えー」
「暑苦しい」
「えー。嬉しいくせに」
目の前でイチャイチャし始めた二人を横目に、後ろを振り返る。先ほどまで大声で騒いでいた蓮見と榊は、今やスマホのゲーム対戦をしながら楽しんでいる。
この光景があと1年で見納めだと思うと、心のどこかで悲しんでいる自分がいた。
(あと、1年。思いっきり楽しもう)
私はそう決心して、足を進めた。