悲劇のフランス人形は屈しない3
夏が本格的に始まる前の梅雨の季節がやって来た。雨が続くこの時期は、中々公園へランニングに行けず、受験勉強のストレスが発散出来ない私は、お世話になっている幸田ジムに行くことにした。
「こんにちは~」
ガラス扉を開けながら私は挨拶をする。
「あ、白石ちゃん」
床の拭き掃除をしていた幸田は、いつものように明るい笑顔を作った。ジムの中は、冷房が効いているせいか少し肌寒く感じる。しかし真ん中のボクシングリングで練習試合をしているところを見ると、体の熱がせり上がって来るのを感じた。
「走りに来た?」
私の気持ちを読むのが得意な幸田は、ジムの会員カードを受け取りながら聞いた。
何度もお世話になることがあり、一般公開していないにも関わらず、特別にジムの会員にしてくれた。もちろん女子の会員は自分以外におらず、優しい幸田だから認めてくれたようなものだ。そのご厚意にあやかり、私は思いっきり体を動かしたいときにはここに来るようになった。しかし、あまり通ってしまうと、トレーニング中のボクサーたちに迷惑をかけてしまうと、なるべく回数を減らしている。
幸田ジムは、基本的にはボクシングジムだが、筋トレ器具以外にもトレッドミルを二台ほど端の方に置いていた。それを目当てに来ることもあった。特に今日のような雨の日は。
「少し走ったらすぐ帰りますので」
辺りを見渡し、真剣にトレーニングをしている人たちを見ながら私は言った。
「気にしないでいいのに。ミット打ち、やりたかったら声掛けてね」
幸田はそう言いながら、モップを再度掴んだ。
ふと目を走らせた先に、上下緑色のジャージを着た人の姿が視界に入った。後ろで黒髪を一つに結い上げているが、髪が短いのか、首の後ろで毛束がぴんと立っている。体格から判断するに女性であると分かった。
「女性もいるんですね」
どこか慣れない手つきでジャブやストレートを打つ様を観察しながら、隣にいる幸田に向かって言った。退院してから既に数回、ここにお邪魔しているが、同性を見かけたのは今回が初めてだ。
「ああ、あの子ね。白石ちゃんと同じ年じゃないかな?かっくんの知り合いの子」
「高校生ですか?」
「うん。どうもあの子も訳ありのようで」
どこか見覚えのある後ろ姿に、私は首を傾げた。しかし、時計を見てすぐに幸田にお辞儀をし、女子更衣室へ向かった。事務室の奥には、幸田が丁寧に作ってくれた簡易的な女子専用の更衣室があった。いつもはパイプ椅子だけ置かれているところに、今日は無造作に脱ぎ捨てられたセーラー服があった。少し気になったが、鞄からスポーツウェアを取り出すとすぐに着替え始めた。
運動中も何度か顔を見ようと試みたが、私がランニング中に彼女はトレーナーとミット打ちをし、私がランニングを終えた時には既に姿を消していた。サンドバッグでの打ち込みを終えた時には、既に外は暗くなっていた。
(ヤバい、まどかに怒られる…)
自分が使った場所を掃除しながら、私は時計を見てぎょっとした。
昏睡状態から目覚めてから既に何か月も過ぎている。しかし、妹は自分の目の届かないところにいない私が心配のようで、学校帰りに寄り道もせずに帰ってきてほしいと訴えていた。まどか本人はというもの、家からリモートで塾の講義や習い事をすると言い張り、何度か母親と喧嘩している。
一度まどかとの大事な約束を破ってしまった身としては、彼女の言いなりになるしかない。私は慌てて、事務室へと駆けこんだ。
しかしドアを開けてすぐに後悔した。幸田と女子高生が何か深刻な話をしているようで、部屋はビリビリとした空気で包まれていた。
私は腰を低くかがめ、素早く更衣室の中に入った。急いで全身の汗を拭き、制服に着替える。しかし、その間にも幸田たちの会話が入って来た。
「本当にいいの?」
幸田が悲しそうな声で言った。
「はい。学校側に言ったところで結局なにも変わりませんし」
女子生徒が単調に答えている。
「僕が協力すると言っても?」
「私が強くなればいいだけですから。克巳(かつみ)が私に望んでいることですよね」
「う~ん。かっくんは、強くなるというより自己防衛の方だと思うけど」
出て行きにくい雰囲気の中、私はゆっくりと更衣室から出た。
「お、お疲れさまでした~…」
二人の会話を邪魔しないよう、相手に聞こえるか聞こえないくらいの声量で私は、そっと二人の横を通る。
「白石ちゃん、お疲れ様。またおいで」
幸田がそう声を掛けたので、私はドアの前で振り返った。
「はい。また来ま…」
そこで初めて私は女子高生と目が合った。
「あ」
「あ」
私たちの声が綺麗に重なった。
ボクシングをしていた時に一つに結っていた髪は、今はほどかれ、肩の上で綺麗に切りそろえられたボブヘアになっている。前に会った時より、髪は伸びたようたが、どこか冷めた雰囲気のこげ茶色の瞳は、修学旅行で出会った時と変わらないように思えた。
「み、未央?」
「透?」
私たちは呆然としたまま顔を見合わせた。
「あれ、知り合い?」
幸田は驚いたように私たちを見比べている。
「もしかして、かっくん繋がり?」
「いえ、私たちは去年の修学旅行中にたまたま会って…」
「透も克巳を知っているの?」
未央の瞳が大きく見開かれた。
「うん。クラスメート」
「私は幼なじみ…」
「こんな偶然ってあるだね~」
まだショックから立ち直れていない私たちをよそに、呑気に幸田は笑っている。
その時、事務室にある時計が6時を指し、鐘が鳴った。
「いけない、帰らないと!」
私は鞄をかけ直し、まさか本当にまた再会できると思っていなかった未央を軽く抱きしめた。
「また、会えて本当によかった!今度お土産渡す!」
そう言うと私はすぐに幸田ジムを後にした。
「お土産?なんの?」
取り残された未央は首を傾げたあと、あっと口に手を当てた。
「また連絡先、聞くの忘れた」
「きっとすぐ会えるよ」
幸田がにこやかに言った。
幸田の予言通り、私たちは近いうちにまた会うことになる。

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