悲劇のフランス人形は屈しない3
凛子のこの提案で、少しの間外出することになった。みんなにすぐ戻ると伝えてから、凛子について小1時間ほど歩き、ある一軒家に着いた。久しぶりに見る実家は、昔と全く変わらなかった。大きな玄関口には、正月の飾りが出しっぱなしになっており、横にスライド型のドアは半開きのままになっている。入り口の近くに父親の使っている小型トラックが止まっており、朝市で販売してきた野菜のカスがまだ荷台に残っていた。
「ただいま」
扉を開けて凛子が言った。
「あら、おかえり。里英ちゃんは元気だった?」
廊下をパタパタと走りながら駆けて来た、懐かしい母の顔を見た瞬間、いきなり涙がこみ上げて来た。
「元気だったよ」
そう言ってから私を紹介しようとして振り向いた凛子の顔が固まった。
「あら、お客様?あら、まあ!」
私が号泣している様子を見たお母さんは、タオルを取りに洗面所へ姿を消した。
「凛ちゃん、大丈夫?」
小声で凛子が言った。優しく背中をさすってくれている。
「うん。大丈夫」
まだ止まらない涙を手の甲で拭いながら私は頷いた。
「辛いなら、また今度にする?」
そう凛子が言ったのと同時に、背後で太く腹に響く声がした。
「ただいま」
2メートルはある父は、見た目も体格も全く変わっていなかった。私の三倍はありそうな腕に、この夏取れたばかりのスイカと4つほど抱えていた。
「お客さんか?」
私を見下ろしながら父が言った。こうして見ると、巨大な怪物のようだ。昔は、お前の父ちゃんはモンスターだなとよく言われ、父に出くわしたクラスメートは一目散に逃げ出していたが、その気持ちが今になってよく分かった。
「うん。白石透さん」
「上がってもらえ」
父はそう言うと、乱暴にサンダルを脱いで、どしどしと足音を響かせてリビングに入って行った。入れ替わりにお母さんがタオルを持ってやってきた。
「これしかなかったの」
タオルを渡されるや否や、私は表情を見られないように涙を拭くふりをして顔を隠した。
「何かあったの?」
お母さんが心配そうに凛子に聞いている。
「なんか、お母さんを見ると自分の母親を思い出すみたいで」
「あら…。まだ若いのに…」
母親がいないと思ったのか、気の毒そうに言っているのが聞こえた。
「良かったら慰めてあげて」
凛子が何か合図をしたらしい。お母さんは、玄関に降り立つと突然私を抱きしめた。
「ほら、泣かないの」
懐かしい母親の匂いと優しい言葉に、どんどん涙が溢れてきた。我慢したいのに、嗚咽が喉元まで迫ってくる。
私はお母さんの背中に片腕を回し、ずっと言えなかったことを口にした。
「本当にごめんなさい」
お母さんは困惑しながらも、泣き止むまで私の背中をぽんぽんと叩いてくれていた。昔、私が自転車から落ちて大泣きしていた時と同じ調子で。
呼吸が落ち着いて来ると、さっと現実を思い出した。慌てて母から離れて、お辞儀をした。
「す、すみません…」
「いいのよ」
その時、後ろが騒がしくなり、誰かが荷物を持ってやってきたのが分かった。
「凛子さん!遅れてすみません!」
声の方を振り返り、私は一瞬にして涙が引っ込んだ。
明るく染めた茶色の髪は、ムースで固めて仕事の出来る青年風にしているが、どこかまだ若々しさが残っている。
「さ、早乙女!?」
「早乙女くん」
凛子の声とちょうどかぶったおかげで、私の呟きは誰にも聞かれることがなかった。
「道路が混んでいたので、遅くなりました…」
両手にお土産を持ちながら、よろよろと早乙女は玄関に近づいた。
「あ、お義母さん。ご無沙汰しております」
「あらあら。またこんなにお土産を。気を使わなくてもいいのに」
お母さんは早乙女からいくつか、お土産を受け取ると、私に一度お辞儀をしてからリビングへと姿を消した。
「あれ、お客さん?」
紺のスーツを着た早乙女は、昔より一層男らしくなった気がした。
「ええ」
早乙女は私をじっと見てから、軽く会釈をし、危なっかしいバランスでお土産を持ちながら靴を脱いでリビングに向かった。
「結婚相手って早乙女なの?」
小声で私は凛子に詰め寄った。
早乙女は、私の三つほど年下の後輩だ。会社で主任になった後も、早乙女が原因で上司に呼び出されたことが何度かあった。合コンが趣味で、よく飲み会に行っては、次の日必ず遅刻し、皆に迷惑をかけるというどうしようもない奴だった。要領が良い以外は、何の取り柄もない。
「驚いたわよね」
凛子は苦笑いしながら頬をかいた。
「驚くも何も!だって、早乙女は合コン好きの奴で…」
「貴女が命をかけて守った人、でしょ?」
凛子が言葉を紡いだ。
事故があったあの日。
私は倉庫内で、早乙女に注意しているところだった。もう大丈夫という早乙女をその場に残して、自分の仕事に向かった時、大地震が起きた。揺れが起きた時は、棚からすぐさま離れるように訓練されているが、早乙女はパニック状態で、その場から動けずにいた。その時、早乙女の頭上にある荷物がグラグラと不安定に揺れているのに気づいた。叫んでいるヒマはないと直感的に思い、考えるより先に私は早乙女に体当たりしていた。そしてそのまま荷物の下敷きになり、命を落とした。
「病室で目が覚めた時、彼がいたの」
どこか思い出すように凛子が言った。
「おそらく自分のせいで、って罪悪感が消えなかったのね。それで何週間も付きまとわれたわ」
困ったようにそう言いながらも、まんざらではなさそうに口角が上がっている。
「シン君のおかげで、体には何の異常もなかったのだけど。早乙女くんが何でもするって言うから、色々お願いをしていたら。ある日、彼の方から告白して来たのよ」
私は信じられないというように目をむいた。
「でも、アイツの好きなタイプは…」
「ええ。小柄で可愛くて守ってあげたくなるタイプよね。でも、あの日から彼のタイプは変わったそうよ。自分を命がけで助けてくれた人に」
(でもそれだけで、早乙女が趣味を変えるだろうか)
私は腕を組んだ。
きっと、中身が白石透の杉崎凛子に恋をしたのだろう。強そうに見えて、まだ中身は幼く守ってあげたくなるような白石透に。そして、どこか上品さも兼ね備えている彼女を、異性として意識し始めたに違いない。
「凛子さん、来ないんですか?」
リビングの扉から顔だけを出して、早乙女が聞いた。もう何度も家族に会っているのか、緊張している様子は全くない。
「お義母さんがケーキ切ってくれたよ」
「今行くわ」
そう言ってから、私の方を向いた。
「凛ちゃんも、一緒にどう?」
私は首を振った。
「帰るわ。友達が待っているから」
新しい家族の形が出来上がっているところに、私が入って行く理由もない。
気持ちを察したのが、凛子は引き留めなかった。
「また会いましょう」
「うん。必ず」
そう言って、私たちは別れた。
また会えるかどうかも分からない。
でも一つだけはっきりしていることは、私たちはもう大丈夫だ、ということだ。
「ただいま」
扉を開けて凛子が言った。
「あら、おかえり。里英ちゃんは元気だった?」
廊下をパタパタと走りながら駆けて来た、懐かしい母の顔を見た瞬間、いきなり涙がこみ上げて来た。
「元気だったよ」
そう言ってから私を紹介しようとして振り向いた凛子の顔が固まった。
「あら、お客様?あら、まあ!」
私が号泣している様子を見たお母さんは、タオルを取りに洗面所へ姿を消した。
「凛ちゃん、大丈夫?」
小声で凛子が言った。優しく背中をさすってくれている。
「うん。大丈夫」
まだ止まらない涙を手の甲で拭いながら私は頷いた。
「辛いなら、また今度にする?」
そう凛子が言ったのと同時に、背後で太く腹に響く声がした。
「ただいま」
2メートルはある父は、見た目も体格も全く変わっていなかった。私の三倍はありそうな腕に、この夏取れたばかりのスイカと4つほど抱えていた。
「お客さんか?」
私を見下ろしながら父が言った。こうして見ると、巨大な怪物のようだ。昔は、お前の父ちゃんはモンスターだなとよく言われ、父に出くわしたクラスメートは一目散に逃げ出していたが、その気持ちが今になってよく分かった。
「うん。白石透さん」
「上がってもらえ」
父はそう言うと、乱暴にサンダルを脱いで、どしどしと足音を響かせてリビングに入って行った。入れ替わりにお母さんがタオルを持ってやってきた。
「これしかなかったの」
タオルを渡されるや否や、私は表情を見られないように涙を拭くふりをして顔を隠した。
「何かあったの?」
お母さんが心配そうに凛子に聞いている。
「なんか、お母さんを見ると自分の母親を思い出すみたいで」
「あら…。まだ若いのに…」
母親がいないと思ったのか、気の毒そうに言っているのが聞こえた。
「良かったら慰めてあげて」
凛子が何か合図をしたらしい。お母さんは、玄関に降り立つと突然私を抱きしめた。
「ほら、泣かないの」
懐かしい母親の匂いと優しい言葉に、どんどん涙が溢れてきた。我慢したいのに、嗚咽が喉元まで迫ってくる。
私はお母さんの背中に片腕を回し、ずっと言えなかったことを口にした。
「本当にごめんなさい」
お母さんは困惑しながらも、泣き止むまで私の背中をぽんぽんと叩いてくれていた。昔、私が自転車から落ちて大泣きしていた時と同じ調子で。
呼吸が落ち着いて来ると、さっと現実を思い出した。慌てて母から離れて、お辞儀をした。
「す、すみません…」
「いいのよ」
その時、後ろが騒がしくなり、誰かが荷物を持ってやってきたのが分かった。
「凛子さん!遅れてすみません!」
声の方を振り返り、私は一瞬にして涙が引っ込んだ。
明るく染めた茶色の髪は、ムースで固めて仕事の出来る青年風にしているが、どこかまだ若々しさが残っている。
「さ、早乙女!?」
「早乙女くん」
凛子の声とちょうどかぶったおかげで、私の呟きは誰にも聞かれることがなかった。
「道路が混んでいたので、遅くなりました…」
両手にお土産を持ちながら、よろよろと早乙女は玄関に近づいた。
「あ、お義母さん。ご無沙汰しております」
「あらあら。またこんなにお土産を。気を使わなくてもいいのに」
お母さんは早乙女からいくつか、お土産を受け取ると、私に一度お辞儀をしてからリビングへと姿を消した。
「あれ、お客さん?」
紺のスーツを着た早乙女は、昔より一層男らしくなった気がした。
「ええ」
早乙女は私をじっと見てから、軽く会釈をし、危なっかしいバランスでお土産を持ちながら靴を脱いでリビングに向かった。
「結婚相手って早乙女なの?」
小声で私は凛子に詰め寄った。
早乙女は、私の三つほど年下の後輩だ。会社で主任になった後も、早乙女が原因で上司に呼び出されたことが何度かあった。合コンが趣味で、よく飲み会に行っては、次の日必ず遅刻し、皆に迷惑をかけるというどうしようもない奴だった。要領が良い以外は、何の取り柄もない。
「驚いたわよね」
凛子は苦笑いしながら頬をかいた。
「驚くも何も!だって、早乙女は合コン好きの奴で…」
「貴女が命をかけて守った人、でしょ?」
凛子が言葉を紡いだ。
事故があったあの日。
私は倉庫内で、早乙女に注意しているところだった。もう大丈夫という早乙女をその場に残して、自分の仕事に向かった時、大地震が起きた。揺れが起きた時は、棚からすぐさま離れるように訓練されているが、早乙女はパニック状態で、その場から動けずにいた。その時、早乙女の頭上にある荷物がグラグラと不安定に揺れているのに気づいた。叫んでいるヒマはないと直感的に思い、考えるより先に私は早乙女に体当たりしていた。そしてそのまま荷物の下敷きになり、命を落とした。
「病室で目が覚めた時、彼がいたの」
どこか思い出すように凛子が言った。
「おそらく自分のせいで、って罪悪感が消えなかったのね。それで何週間も付きまとわれたわ」
困ったようにそう言いながらも、まんざらではなさそうに口角が上がっている。
「シン君のおかげで、体には何の異常もなかったのだけど。早乙女くんが何でもするって言うから、色々お願いをしていたら。ある日、彼の方から告白して来たのよ」
私は信じられないというように目をむいた。
「でも、アイツの好きなタイプは…」
「ええ。小柄で可愛くて守ってあげたくなるタイプよね。でも、あの日から彼のタイプは変わったそうよ。自分を命がけで助けてくれた人に」
(でもそれだけで、早乙女が趣味を変えるだろうか)
私は腕を組んだ。
きっと、中身が白石透の杉崎凛子に恋をしたのだろう。強そうに見えて、まだ中身は幼く守ってあげたくなるような白石透に。そして、どこか上品さも兼ね備えている彼女を、異性として意識し始めたに違いない。
「凛子さん、来ないんですか?」
リビングの扉から顔だけを出して、早乙女が聞いた。もう何度も家族に会っているのか、緊張している様子は全くない。
「お義母さんがケーキ切ってくれたよ」
「今行くわ」
そう言ってから、私の方を向いた。
「凛ちゃんも、一緒にどう?」
私は首を振った。
「帰るわ。友達が待っているから」
新しい家族の形が出来上がっているところに、私が入って行く理由もない。
気持ちを察したのが、凛子は引き留めなかった。
「また会いましょう」
「うん。必ず」
そう言って、私たちは別れた。
また会えるかどうかも分からない。
でも一つだけはっきりしていることは、私たちはもう大丈夫だ、ということだ。