悲劇のフランス人形は屈しない3

合格発表

2月上旬になると、合格発表のことが気がかりになり、何も手が付けられなくなっていた。なんとなく学校に行ってはいるものの、ほとんどが上の空で、何度も先生に叱られた。そして、とうとう合格発表がネットで公開される日となった。
発表は朝の10時だというのに、まどかは朝もまだ浅い5時に私を叩き起こした。そこから二人でベッドの上で、発表が始まるのを今か今かと待っていた。そして10時ちょうどになり、私はノートパソコンに自分の受験番号を入力した。サーバーが混雑しているのか、ぐるぐると回るアイコンがもどかしい。数十秒後、パッと画面が切り替わった。
隣にいる妹は緊張して見られないと目を覆い隠している。私は少しずつスクロールを動かし、合否が書かれているページまで行った。手が震え、心臓は早鐘のように打っている。
目に飛び込んで来た文字を見て、私は息を呑んだ。
「…お姉さま?」
私が無言なのが心配になったまどかが、指の隙間から声を掛けた。
「う、受かった…」
喉の奥から掠れた声が出た。
「受かった!」
「本当!?」
まどかは私からパソコンを奪い取ると、食い入るように画面を見つけている。そこには大きな文字で、〈合格〉と書かれていた。
「おめでとう~!お姉さま!」
妹は思いっきり私に抱き着いた。遠慮ない頭突きに涙が出たが、気にしないほど気分が明るい。興奮が抑えられず、体がむずむずし始めた。
「走って来る!」
私がそう言うと呆れたように妹は笑った。
「お姉さまらしいわ」
スポーツウェアに着替え終わり、家を出る頃には、まどかは私のベッドで二度目の睡眠に戻っていた。

肌に突き刺さる冷たい風が心地よい。少しずつ明るくなっている外の世界では、いつものように一日が始まっていた。この時間になると、朝早くに走っている常連たちの姿はなく、買い物へ行く人たちや犬や子供と戯れる人たちで公園は賑わっていた。
その時、ふと見覚えのある犬の姿を見た。前を歩いていた白いポメラニアンは、私の匂いに気づいたのか、振り返ると嬉しそうに私の足元に寄って来た。
「あら、あの時のお嬢様」
今回はしっかりとリードを握っている老女がお辞儀をした。今日も相変わらず上品な紺色の着物を着ている。私はお辞儀した。
「お久しぶりです。いつもこの時間にお散歩を?」
「ええ」
老女はにこやかに答えた。
近所なのにあまり出会わなかった理由がここに来てはっきりした。早朝に走りに出て7時からお昼過ぎまで寝ている私と時間がかぶらなかったのも不思議ではない。
「前に家に来ていただいた時以来よね」
何かを思い出すように老女は遠くを見た。それから軽く首を振って、笑った。
「ごめんなさい。お名前、伺っていたかしら?」
「白石です。白石透と申します」
笑顔だった友代だが、白石の名前を聞いた瞬間、一気に顔から血の気が引いた。
「し、白石透さん…?」
名前を噛みしめるように友代が繰り返した。
「響子が…、うちの孫が突き落としたあの白石透さん…?」
ゴンのリードを持った、血管の浮き出ている手が小刻みに震えている。私は小さく頷いた。
「そ、そんな…。そんなことって…」
震えた手からぽろりと、リードが落ちた。私はすぐさまそれを掴み、呼吸が浅くなっている細くてか弱い友代の体を支えた。
「大丈夫ですか?誰か呼びましょうか?」
友代は首を振ると、私の手をしっかりと掴んだまま言った。
「い、家に連れて行ってちょうだい。薬があるの…」
「分かりました」
ゴンのリードを持ち直してから、友代を抱えるようにして急いで西園寺の家へと向かった。

〈原〉と書かれた表式の前を通り、大きな一軒家へと足を踏み入れた。一度しか来たことしかない場所なのに、西園寺の実家と聞いて、逃げるように家を後にした日を、今でも鮮明に思い出せる。
玄関扉を叩き、ドアを開けると、すぐさま着物姿の使用人が駆けつけて来た。
「友代さま!いかがなされましたか!」
「大したことないわ。いつもの薬を用意してちょうだい」
数人の使用人が手分けして、友代をリビングに運んだり、ゴンを犬小屋に連れて行ったりと忙しなく動いている中、私は居場所なく玄関に立っていた。「もう大丈夫」と言っている友代の声がしたので、帰ろうかと踵を返した時、使用人の一人が声を掛けた。
「白石さま、お上がりください」
有無を言わさぬような姿勢に、私は小さく「はい」と呟き、靴を脱いだ。

湯気の立った淹れたてのお茶が甘くいい香りを放っている。その隣には、四分の一にカットされたバウムクーヘンが花形の陶器のお皿の上に置かれていた。
「どうぞ、よろしかったら召し上がって」
先ほどより落ち着いた様子の友代が言った。
「頂きます…」
どこか緊張しながら、私は先が二つに分かれた銀色のフォークを持った。バウムクーヘンを小さく切り口に運ぶと、口の中にバターと砂糖が溶け合った味が広がる。友代は、しばらくの間、自分の茶器を見つめていたが、意を決したように顔を上げた。
「白石透さん」
「は、はい」
名前を呼ばれ、私は慌ててフォークを置いた。
友代は正座のまま、少しテーブルとの間を開けるために後ろに下がると、美しい所作で頭を下げた。
「え!あの、友代さん!?」
私は思わず膝立ちし、友代に腕を伸ばした。友代は顔を畳に付きそうなほど下げながら、はっきりとした声で言った。
「孫の響子が貴女にしてきた数々の行いは許されるものではありません。貴女の…」
ここで喉を詰まらせたかのように、友代の声がしわがれた。
「尊い命を奪おうとしたことは、必ず罪を償うべきだと思います。しかし、彼女の親代わりとして、目が行き届いていなかった不甲斐いない私のせいでもあります。どうか、この友代の謝罪を受け入れてはくれませんか」
「友代さん、顔を上げて下さい」
私がそう言っても、友代は一向に顔を上げる気配を見せない。私は、立ち上がってテーブルを回り込むと、友代のやせ細った肩に手を添えた。
「友代さんが気に病む必要はありません。これは、私と西園寺さんとの問題なのですから」
友代の痩せた肩が小刻みに震えているのに気づいた。心の底から自分のせいだと悔いているのだろうか。
「もう顔を上げて下さい。また体調を崩されます」
しっかりと肩を抱き、私は友代の体を起こした。
「友代さんのせいじゃありませんから…」
私がそう言うと、友代は弱々しく頭を振った。
「いいえ。全て私のせいなのです。響子が、あそこまで追い込まれているとは思ってもみませんでした。天城のご子息に執着しているのは知っていたけれど、所詮はただの恋心としか…」
涙を流しながら友代は未だに下を向きながら言った。
「響子は、母親に似て元々体が虚弱でした。でも母親の死を境に、こちらに戻って来たいと言って、日本での入院生活が始まりました。もちろん学校に通えるはずもなく、卒業も出来なかった。本当は、透さんより2年ほど年が上なのよ」
友代は続けた。
「仲の良い友達もいない、体調が良い時に学校に行ったら年齢が上だとからかわれる。それ以来、どんどん性格が変わってしまったように思えました。人を引き寄せなくなり、一緒にいるのは幼少期から響子の面倒を見ていた付き人だけ」
(監視カメラに映っていた人。伊坂さんに接触した人か)
友代の震えている手を握りながら私は思い出していた。
「そんな入院生活の時に出会ったのが、天城のご子息でした。彼は彼で何かに悩んでいるようだったけれど、響子のことは知らないようで。だからこそ響子はよく病室に遊びに行っていました。同じ高校に入学すると知った時に、響子は思い切って自分の年齢のことを打ち明けたようです。拒絶されるかと思っていたけど、全く気にした様子のない天城のご子息に、響子はすぐさま心を奪われました。・・・そこからね。あの子が執着を見せ始めたのは」
私の手を離し、友代は自力で姿勢を正すと私の方を向いた。
「それから天城家のことを調べ、貴女という婚約者がいることを知りました。そして貴女の噂があまり良くないことも」
友代から目を離さずに私は聞いていた。
「天城のご子息を幸せにするのは自分だって言っていたのを覚えています。貴女が婚約破棄をしたというのも、響子から聞きました。・・・だから、全てが丸く収まると思っていたの」
そう言った友代の瞳からまた涙がこぼれた。
「本当に貴女には悪いことをしました。私が気づいていれば、響子にもっと寄り添っていれば、こんなことにはならなかった。母親の代わりは私だと言うのに…。私は麗子に顔を向け出来ない…」
泣き崩れた老女の背中を見つめながら、私はなんと声をかけたらいいか分からず呆然とその場に座っていた。

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