悲劇のフランス人形は屈しない3
来訪者
最後の検査である脳のCTスキャンを取り終わり、異常がないと分かったところで、退院の日が正式に決定した。退院前日、想像もしていなかった人物が姿を現した。
その日、私の病室は相変わらずお祭り騒ぎだった。ベッドサイドで榊は練習したてのギターを披露してくるし(未だに何の曲を演奏しているかは不明)、暴走している榊を私に任せて、蓮見、天城、五十嵐はまどかとババ抜きをして楽しんでいる。
そんな騒がしい場所にいたので、遠慮がちなノックに初めは気がつかなかった。しかし、病室の扉がゆっくりと開いた時には、私はその方向に意識を向けていた。黒髪を後ろで二本に結い上げている女子は、私の顔を見ると、ほっとした安堵の表情を作った。
「良かった…」
「い、伊坂さん?」
私の声が思ったより大きかったのか、部屋の中が静まり返った。
「お、遅くなっちゃって…。間に合った」
申し訳なさそうに言う伊坂は、しかしドアのそばから離れようとしない。伊坂の視線があちらこちらに動いているが、一番の理由は、私の近くでギターを抱え伊坂を凝視している、榊のせいだと悟った。榊の風貌は相変わらず初対面の人に衝撃を与えるらしい。肩まであった金髪を耳元まで短く切り、下半分を刈り上げて黒染めした頭。かろうじて制服姿ではあるものの、ワイシャツは身に着けず、赤いパーカーを校章の入ったジャケットの下に着用している。耳には刺々しいピアスが目立ち、眉は誰よりも細い。紫色に光る鋭い視線が自分に向けられていると思うと、それはそれは居心地が悪いだろう。
私は榊の方を向いた。
「榊。外、行ってて」
「は?」
不満げに榊が反応した。
「伊坂さんと話したいから。あんたがいたら、怖いでしょ」
「俺のせい?」
私は大きく頷き、立ち上がるように指示する。
どこか嫌々ながらも、榊はギターをケースに仕舞うと病室から出て行く。ドアのそばで身を小さくして立っている伊坂に、一応頭は下げて挨拶はしたものの、じろじろと見ることはやめなかった。
(それが怖いんだよ…)
自分の容姿をもっと自覚してくれ、と私はため息を吐いた。
「白石さん」
榊が消えたことで、呼吸を思い出したのか、伊坂はふうと息を吐き出した。それからゆっくりとした足取りでベッドサイドへと近づいた。
「じゃあ、俺たちもランチ食べて来るかー」
蓮見がカードをテーブルに置き、立ち上がった。
「そうですね」
すぐさま察した妹が、蓮見に倣って立ち上がる。天城も無言のままそれに続いたが、五十嵐だけは動かない。
「お前も行くの!」
蓮見が五十嵐の腕を引っ張った。
「えー。眠い」
「何言ってんの!さっきまで自分が一位を独走中だからって、次回戦もやりたがっていたくせに!」
「えー。そんなこと言ってない~」
「言ってた!」
天城とまどかはすでに病室の入り口で腕を組み、そんな二人の様子を見ている。自分たちは関与したくないと態度で示している気がする。
「あ、あの。べ、別にいてもいいよ…?」
終わりの見えない蓮見と五十嵐の攻防戦を、おろおろしながら見ていた伊坂が言った。
「でしょ?ほら、彼女もそう言ってるし」
五十嵐が長い前髪の奥から、蓮見に抗議している。
「白石ちゃんがいいって言ってない」
そう言いながらも蓮見が、どうする?と私の方を向いた。
「いてもいいでしょ?」
五十嵐の言葉に、私は首を振った。
「どこかでランチして来てください」
「えー。透の裏切り者~」
「重い!自分で歩け!」
「えー」
半ば強引な形で、蓮見が五十嵐を引きずりながら部屋を出て行く。そして数分後、やっと病室内は静けさに包まれた。
「ごめんね。うるさくて」
伊坂はベッドサイドにある椅子に座りながら首を振った。
「ううん。何か楽しそうで安心した」
「そうね。少し賑やかすぎる気もするけど。あ、何か飲む?」
私はベッドから降り、備え付けの小さな冷蔵庫から自分用にお茶と、オレンジジュースを取り出した。それからベッドに座り、伊坂に手渡す。
「もう大丈夫なの?」
オレンジジュースを手で抱えたまま伊坂が聞いた。
「ええ。明日には退院できるから。それにしても」
私は伊坂の顔をまじまじ見つめた。
「また会えるとは思ってなかったから、本当に嬉しい。ありがとう」
久しぶりに見る彼女は、以前より体も心も健康そうに見えた。肌も少し焼けた気がする。
伊坂は首を横に振った。
「来るのが遅くなってごめんね。天城さんが来てからすぐに出発したかったんだけど…」
そこまで言いかけて伊坂は、ハッと口を押えた。目に当惑した色が出ている。
「天城が…?」
伊坂が確実に口止めされたことを口走ってしまったのが分かった。しかし、それを聞かぬふりは出来なかった。
「どういうこと?天城は、伊坂さんがどこに住んでいるか知っているの?」
お腹の下の方がよじれるように痛くなった。
すっと背筋が寒くなる。私が知らない何かを彼が知っている。
手元に視線を落とした伊坂が、何か言おうとしているのが分かった。
「お願い。教えて?」
私は伊坂の気持ちが変わる前に、優しく言った。
伊坂はふうと息を吐き出すと、顔を上げた。
「天城さんには口止めされていたんだけど」伊坂の手が握り締められた。「西園寺さんから私たち家族を守ってくれたのが、天城さんなの」
「ど、どういうこと?」
動揺が隠せずに私は少し前のめりになった。
「ある日パパの会社で、横領事件が発覚したの。そして、パパは無実なのに濡れ衣を着せられてしまった。私たち一家には、大きな借金が出来てしまったの。あとから知ったのだけど、パパの会社は西園寺グループの下請けの一つだったらしくて。本当に横領が起きたのか、でっちあげられた事件なのかは最後まで分からずじまいだった。だけど、家族を奈落の底に落とすには十分だった」
そこで伊坂は言葉を切り、オレンジジュースを一口飲んだ。
「体育祭の日、ある男が私のところに来た」
(フードの男。西園寺の付き人ね…)
そう思ったが、伊坂の話を遮らないように私は頷くだけにした。
「あの時は背景に誰がいるのか全く分かっていなかった。考えればすぐ分かることなのにね。彼は、家族全員が無事でいたければすぐに姿を消せと言ってきた。移住先も用意してあるからって。その時提示された移住先は、海外だった」
「海外…?」
予想外の提案に私は口が開いた。
「うん。アフリカのどこかだった。海外に行ったこともないし、誰も地元の言語を話せない。でも日本にとどまるなら、借金を全て払えと言って来て。しかも横領事件もパパの名前で公表するって脅されたの。しまいには、これらを全て仕組んだのは…」
どこか言いにくそうに伊坂は下を向いた。
何を言いたいのかが分かり、私は頭を振った。
「・・・白石透だと」
「でもそれは信じなかった!私みたいな庶民にも優しくしてくれた白石さんが、そんなことするはずないって知ってたから。でも、相談できなかった。言えなかったの。こんな話をしたら白石さんも巻き込んでしまいそうで」
そう言いながら、伊坂は拳を強く握った。
「海外へ行くしか選択肢がなかった時に、現れたのが天城さん。もちろんお友だちの蓮見さんや五十嵐さんもいた」
私はじっとりと全身に汗をかいていた。
「彼らは私たちが日本にいれるように、住む場所もパパの仕事も用意してくれた。裏に誰がいるか分からないから、人目につかないところに一時的に身を隠してほしいって頼まれた。人里から離れた山奥だったけど、見知らぬ海外へ行くよりは何倍も良かった。海外で仕事が見つかる保証もないしね」
伊坂の話は続く。
「古い一軒家だけど、何の不自由もなく暮らしてる。落ち着いてから白石さんにメッセージを送ったんだ。でも背景にいる人物に気づかれてしまう危険があるから、極力白石さんにも連絡をしないようにって何度も念を押された。その時ね、天城さんが言ってたんだ」
何かを思い出したように伊坂が笑った。
「アイツは、いったん暴走とすると手が付けられない闘牛のようだって」
「と、闘牛…?」
「このことが露呈したら自分で犯人を見つけようと暴走するだろうって。白石さんが狙われている可能性も高いのに。白石さんにも被害が及ぶと思ったら、連絡も全然出来なかった」
伊坂が首(こうべ)を垂れた。
「身を隠している間も、白石さんのことは、ずっと心配していたんだよ。普段は気丈に振る舞っているけど、いつも一人で寂しいんじゃないかって。だけど…」
私はせり上がってくる涙がこぼれないように歯を食いしばった。
「今日、病室に入った瞬間、それが杞憂だったことに気づいた。すごく安心した。白石さんは、一人じゃないんだって。ちょっと意外な人もいたけど」
榊のことを思い出したのか、伊坂は軽く笑った。
「1か月前くらいに西園寺さんの件が解決したって連絡くれたのも天城さんだったの。だから安心して戻って来て大丈夫だって。そして数週間前にはね、白石さんが目覚めたからお見舞いに行ってあげてほしいって直接言いに来てくれた」
「そ、そうだったんだ…」
私は自分の拳が震えているのに気づいた。
伊坂がそこまで窮地に立たされていたなんて、一家揃って辛い思いをしていたなんて、微塵も想像していなかった。そして何より、あの三人が手を差し伸べて来た時、私は頑なに拒絶した。それなのに自分たちで調べて突き止め、手の届かないところで伊坂を守ってくれていたんだ。私に一言も言わずに。
「一度、白石さんがまだ昏睡状態の時、お見舞に来たんだけど、その時の飛行機代とかホテル代を出してくれたのが天城さん。本当に助かった」
それから私に視線を合わせた。
「白石さんは心から大事にされてるなって思った。あそこまで必死になってくれる人がいるなんて、羨ましい限りだよ?」
どこか冗談めいたように伊坂は頬を膨らませた。
「そう、なの…」
私は居心地が悪くなり、言葉を濁した。しかし、伊坂は強く頷いた。
「彼が私のところに来た時、未だに目を覚まさない白石さんのことを凄く心配してた。あの事件が起きた時、一番近くにいたはずなのに、気づけずに守ってやられなかった、自分のせいだって自分を責めてた。私、天城さんのあの表情は一生忘れられないと思う」
そして伊坂は私の手を取った。
「白石さんが目覚めてくれて本当に、本当に良かった。私も誰にも負けないくらい心配したんだからね」
「うん。ありがとう…。ごめんね」
伊坂が私に抱き着き、私たちはしばらくの間、静かに泣いた。
それからランチを済ませたみんなが帰ってくるまでの間、私の病院食を一緒に食べながら伊坂と他愛のない話をした。すぐにこっちへ戻って来られるように手続きすると天城たちに言われたものの、何だかんだ田舎暮らしが性に合っているようで、伊坂は提案を断る姿勢を見せた。最初は田舎が嫌いだった伊坂の弟も、学校に友達ができ、放課後は虫取りに出かけたりするらしい。母親からの勉強のプレッシャーから抜け出せたことが嬉しいらしく、毎日楽しそうに過ごしている。父親はテレワークでの仕事をしている傍ら、母親と共に畑仕事に精を出しているとか。また、少数だが近所に人は住んでいるらしく、地元の高校以外にも近所の友達が出来たそうだ。
長い休みに入ったら必ず遊びに行くと約束をし、伊坂は帰って行った。
その日、私の病室は相変わらずお祭り騒ぎだった。ベッドサイドで榊は練習したてのギターを披露してくるし(未だに何の曲を演奏しているかは不明)、暴走している榊を私に任せて、蓮見、天城、五十嵐はまどかとババ抜きをして楽しんでいる。
そんな騒がしい場所にいたので、遠慮がちなノックに初めは気がつかなかった。しかし、病室の扉がゆっくりと開いた時には、私はその方向に意識を向けていた。黒髪を後ろで二本に結い上げている女子は、私の顔を見ると、ほっとした安堵の表情を作った。
「良かった…」
「い、伊坂さん?」
私の声が思ったより大きかったのか、部屋の中が静まり返った。
「お、遅くなっちゃって…。間に合った」
申し訳なさそうに言う伊坂は、しかしドアのそばから離れようとしない。伊坂の視線があちらこちらに動いているが、一番の理由は、私の近くでギターを抱え伊坂を凝視している、榊のせいだと悟った。榊の風貌は相変わらず初対面の人に衝撃を与えるらしい。肩まであった金髪を耳元まで短く切り、下半分を刈り上げて黒染めした頭。かろうじて制服姿ではあるものの、ワイシャツは身に着けず、赤いパーカーを校章の入ったジャケットの下に着用している。耳には刺々しいピアスが目立ち、眉は誰よりも細い。紫色に光る鋭い視線が自分に向けられていると思うと、それはそれは居心地が悪いだろう。
私は榊の方を向いた。
「榊。外、行ってて」
「は?」
不満げに榊が反応した。
「伊坂さんと話したいから。あんたがいたら、怖いでしょ」
「俺のせい?」
私は大きく頷き、立ち上がるように指示する。
どこか嫌々ながらも、榊はギターをケースに仕舞うと病室から出て行く。ドアのそばで身を小さくして立っている伊坂に、一応頭は下げて挨拶はしたものの、じろじろと見ることはやめなかった。
(それが怖いんだよ…)
自分の容姿をもっと自覚してくれ、と私はため息を吐いた。
「白石さん」
榊が消えたことで、呼吸を思い出したのか、伊坂はふうと息を吐き出した。それからゆっくりとした足取りでベッドサイドへと近づいた。
「じゃあ、俺たちもランチ食べて来るかー」
蓮見がカードをテーブルに置き、立ち上がった。
「そうですね」
すぐさま察した妹が、蓮見に倣って立ち上がる。天城も無言のままそれに続いたが、五十嵐だけは動かない。
「お前も行くの!」
蓮見が五十嵐の腕を引っ張った。
「えー。眠い」
「何言ってんの!さっきまで自分が一位を独走中だからって、次回戦もやりたがっていたくせに!」
「えー。そんなこと言ってない~」
「言ってた!」
天城とまどかはすでに病室の入り口で腕を組み、そんな二人の様子を見ている。自分たちは関与したくないと態度で示している気がする。
「あ、あの。べ、別にいてもいいよ…?」
終わりの見えない蓮見と五十嵐の攻防戦を、おろおろしながら見ていた伊坂が言った。
「でしょ?ほら、彼女もそう言ってるし」
五十嵐が長い前髪の奥から、蓮見に抗議している。
「白石ちゃんがいいって言ってない」
そう言いながらも蓮見が、どうする?と私の方を向いた。
「いてもいいでしょ?」
五十嵐の言葉に、私は首を振った。
「どこかでランチして来てください」
「えー。透の裏切り者~」
「重い!自分で歩け!」
「えー」
半ば強引な形で、蓮見が五十嵐を引きずりながら部屋を出て行く。そして数分後、やっと病室内は静けさに包まれた。
「ごめんね。うるさくて」
伊坂はベッドサイドにある椅子に座りながら首を振った。
「ううん。何か楽しそうで安心した」
「そうね。少し賑やかすぎる気もするけど。あ、何か飲む?」
私はベッドから降り、備え付けの小さな冷蔵庫から自分用にお茶と、オレンジジュースを取り出した。それからベッドに座り、伊坂に手渡す。
「もう大丈夫なの?」
オレンジジュースを手で抱えたまま伊坂が聞いた。
「ええ。明日には退院できるから。それにしても」
私は伊坂の顔をまじまじ見つめた。
「また会えるとは思ってなかったから、本当に嬉しい。ありがとう」
久しぶりに見る彼女は、以前より体も心も健康そうに見えた。肌も少し焼けた気がする。
伊坂は首を横に振った。
「来るのが遅くなってごめんね。天城さんが来てからすぐに出発したかったんだけど…」
そこまで言いかけて伊坂は、ハッと口を押えた。目に当惑した色が出ている。
「天城が…?」
伊坂が確実に口止めされたことを口走ってしまったのが分かった。しかし、それを聞かぬふりは出来なかった。
「どういうこと?天城は、伊坂さんがどこに住んでいるか知っているの?」
お腹の下の方がよじれるように痛くなった。
すっと背筋が寒くなる。私が知らない何かを彼が知っている。
手元に視線を落とした伊坂が、何か言おうとしているのが分かった。
「お願い。教えて?」
私は伊坂の気持ちが変わる前に、優しく言った。
伊坂はふうと息を吐き出すと、顔を上げた。
「天城さんには口止めされていたんだけど」伊坂の手が握り締められた。「西園寺さんから私たち家族を守ってくれたのが、天城さんなの」
「ど、どういうこと?」
動揺が隠せずに私は少し前のめりになった。
「ある日パパの会社で、横領事件が発覚したの。そして、パパは無実なのに濡れ衣を着せられてしまった。私たち一家には、大きな借金が出来てしまったの。あとから知ったのだけど、パパの会社は西園寺グループの下請けの一つだったらしくて。本当に横領が起きたのか、でっちあげられた事件なのかは最後まで分からずじまいだった。だけど、家族を奈落の底に落とすには十分だった」
そこで伊坂は言葉を切り、オレンジジュースを一口飲んだ。
「体育祭の日、ある男が私のところに来た」
(フードの男。西園寺の付き人ね…)
そう思ったが、伊坂の話を遮らないように私は頷くだけにした。
「あの時は背景に誰がいるのか全く分かっていなかった。考えればすぐ分かることなのにね。彼は、家族全員が無事でいたければすぐに姿を消せと言ってきた。移住先も用意してあるからって。その時提示された移住先は、海外だった」
「海外…?」
予想外の提案に私は口が開いた。
「うん。アフリカのどこかだった。海外に行ったこともないし、誰も地元の言語を話せない。でも日本にとどまるなら、借金を全て払えと言って来て。しかも横領事件もパパの名前で公表するって脅されたの。しまいには、これらを全て仕組んだのは…」
どこか言いにくそうに伊坂は下を向いた。
何を言いたいのかが分かり、私は頭を振った。
「・・・白石透だと」
「でもそれは信じなかった!私みたいな庶民にも優しくしてくれた白石さんが、そんなことするはずないって知ってたから。でも、相談できなかった。言えなかったの。こんな話をしたら白石さんも巻き込んでしまいそうで」
そう言いながら、伊坂は拳を強く握った。
「海外へ行くしか選択肢がなかった時に、現れたのが天城さん。もちろんお友だちの蓮見さんや五十嵐さんもいた」
私はじっとりと全身に汗をかいていた。
「彼らは私たちが日本にいれるように、住む場所もパパの仕事も用意してくれた。裏に誰がいるか分からないから、人目につかないところに一時的に身を隠してほしいって頼まれた。人里から離れた山奥だったけど、見知らぬ海外へ行くよりは何倍も良かった。海外で仕事が見つかる保証もないしね」
伊坂の話は続く。
「古い一軒家だけど、何の不自由もなく暮らしてる。落ち着いてから白石さんにメッセージを送ったんだ。でも背景にいる人物に気づかれてしまう危険があるから、極力白石さんにも連絡をしないようにって何度も念を押された。その時ね、天城さんが言ってたんだ」
何かを思い出したように伊坂が笑った。
「アイツは、いったん暴走とすると手が付けられない闘牛のようだって」
「と、闘牛…?」
「このことが露呈したら自分で犯人を見つけようと暴走するだろうって。白石さんが狙われている可能性も高いのに。白石さんにも被害が及ぶと思ったら、連絡も全然出来なかった」
伊坂が首(こうべ)を垂れた。
「身を隠している間も、白石さんのことは、ずっと心配していたんだよ。普段は気丈に振る舞っているけど、いつも一人で寂しいんじゃないかって。だけど…」
私はせり上がってくる涙がこぼれないように歯を食いしばった。
「今日、病室に入った瞬間、それが杞憂だったことに気づいた。すごく安心した。白石さんは、一人じゃないんだって。ちょっと意外な人もいたけど」
榊のことを思い出したのか、伊坂は軽く笑った。
「1か月前くらいに西園寺さんの件が解決したって連絡くれたのも天城さんだったの。だから安心して戻って来て大丈夫だって。そして数週間前にはね、白石さんが目覚めたからお見舞いに行ってあげてほしいって直接言いに来てくれた」
「そ、そうだったんだ…」
私は自分の拳が震えているのに気づいた。
伊坂がそこまで窮地に立たされていたなんて、一家揃って辛い思いをしていたなんて、微塵も想像していなかった。そして何より、あの三人が手を差し伸べて来た時、私は頑なに拒絶した。それなのに自分たちで調べて突き止め、手の届かないところで伊坂を守ってくれていたんだ。私に一言も言わずに。
「一度、白石さんがまだ昏睡状態の時、お見舞に来たんだけど、その時の飛行機代とかホテル代を出してくれたのが天城さん。本当に助かった」
それから私に視線を合わせた。
「白石さんは心から大事にされてるなって思った。あそこまで必死になってくれる人がいるなんて、羨ましい限りだよ?」
どこか冗談めいたように伊坂は頬を膨らませた。
「そう、なの…」
私は居心地が悪くなり、言葉を濁した。しかし、伊坂は強く頷いた。
「彼が私のところに来た時、未だに目を覚まさない白石さんのことを凄く心配してた。あの事件が起きた時、一番近くにいたはずなのに、気づけずに守ってやられなかった、自分のせいだって自分を責めてた。私、天城さんのあの表情は一生忘れられないと思う」
そして伊坂は私の手を取った。
「白石さんが目覚めてくれて本当に、本当に良かった。私も誰にも負けないくらい心配したんだからね」
「うん。ありがとう…。ごめんね」
伊坂が私に抱き着き、私たちはしばらくの間、静かに泣いた。
それからランチを済ませたみんなが帰ってくるまでの間、私の病院食を一緒に食べながら伊坂と他愛のない話をした。すぐにこっちへ戻って来られるように手続きすると天城たちに言われたものの、何だかんだ田舎暮らしが性に合っているようで、伊坂は提案を断る姿勢を見せた。最初は田舎が嫌いだった伊坂の弟も、学校に友達ができ、放課後は虫取りに出かけたりするらしい。母親からの勉強のプレッシャーから抜け出せたことが嬉しいらしく、毎日楽しそうに過ごしている。父親はテレワークでの仕事をしている傍ら、母親と共に畑仕事に精を出しているとか。また、少数だが近所に人は住んでいるらしく、地元の高校以外にも近所の友達が出来たそうだ。
長い休みに入ったら必ず遊びに行くと約束をし、伊坂は帰って行った。