消えてしまった私の恋。
2020年4月16日
 
 
 
 『これからホームルームを始める』
 新しい担任――名前は角田連というらしいーーが画面に話しかける。
 来たる新年度。
 本来は新しいクラス、新しい担任、新しいクラスメートと一緒に〝対面〟で出会うはずだが、巴はタブレット端末の画面とにらみ合っていた。
 原因は新型コロナウイルス。
 つまり、〝機械仕掛けの太陽〟だ。
 事を遡ること、二〇二〇年一月六日。中国の武漢において原因不明の肺炎が確認され、厚労省が注意喚起したことから始まる。巴はまだこの頃学校に〝普通〟に登校していたが、WHOが同月十四日新型コロナウイルスを確認し、その翌日には初めて国内で武漢に渡航した中国籍の男性が新型コロナウイルスに感染していたという事などにより、巴も含め、日本国内の人々でマスクを着用する姿が多く見受けられるようになった。
 そして、同月三十日にはWHOが「国際的な緊急事態」を宣言し、そこから新型コロナウイルスという、〝機械仕掛けの太陽〟に怯える人達が劇的に増えていった。
 二月に入れば、乗客の感染が確認されたクルーズ船『ダイヤモンド・プリンセス号』が横浜港に入港し、最終的に七一二人の感染と一三人の死亡が確認された出来事。そして、巴たち高校生も含め世間の人々を騒がせたのが、当時の総理であった安倍総理が全国すべての小中高校に臨時休校要請の考えを公表したことだった。このことにより、家庭に子どもを持つすべての親は三月について考えなければならないということに陥ってしまった。
 無論、それは巴もそうだった。
 幸いにも巴は高校生であり、昼食のことについては自分でやれたので、巴の親――麻由美と一郎はそこまで休むことにはならなかったが、一郎は会社で一律のテレワーク出勤となり、家に居ることが多くなった。
 そして、三月には二つのニュースが世間をより震撼させた。
 一つは、東京五輪・パラリンピックの一年延期。
 もう一つは、新型コロナウイルスによる肺炎により、志村けんさんが亡くなったことだった。
 志村けんという誰もが知るコメディアンが亡くなった影響により、新型コロナウイルスの恐怖が世間に再認識された出来事でもあった。無論、巴たちにも影響があり、マスクの着用の徹底、そして手洗いうがいや消毒の徹底がされた。
 そして、伝家の宝刀でもあった緊急事態宣言が四月七日に発令されたことから、巴の人生上見たことがない、感じたことがないぐらいの閑静な風景が日本中に拡がった。
 『まずは出席確認だな』
 そう言い、角田が画面を操作しているのを巴がボーッと見ていると、画面上部にある通知が表示される。
 「……また感染者」
 巴が溜息交じりに言うと、誰かが『ん?』と発言をする。
 『どうかしたのか?』と担任。画面が切り替わった。
 『ああ、何でも無いです』
 『なら良いが……。みんな、手洗いとうがい、そして消毒も忘れずにな』
 巴にとって何回聞いたであろう、コロナ禍という災いが始まってから聞く言葉を担任が発す。
 「……あの」
 『どうした? 巴』
 巴が口から微かに声が漏れ、それが担任に伝わり首を傾げ始める。
 「オンライン授業って……、いつまで続くんですか?」
 なぜかその質問を巴は口にしていた。誰もがそう思っていることだが、誰も言わない。そう、このコロナ禍は終わりが見えなかったから。だけど、巴だけは違った。
 彼女はこの日に至るまで皆と同じように絶望をした。いつになったら皆に会えるのだろう、と。このまま会えないんじゃないか、と。それはコロナによって全国一斉休校によって気持ちが沈み、巴の気持ちには絶望という虫が蝕んだ。このまま亡くなれば、人生が楽になれば良いんじゃないか、そう思った日々が巴の人生に切り刻んだ。
 しかし、彼女の幼少期によく見て、よく慕っていたあるコメディアンが亡くなった情報や、危険ながらマスコミが密着取材をした医療従事者の姿が彼女の心に火を灯し、少しでも前を向いて歩こう、そう思って今も巴は前を向いていた……はずだった。
 
 (多分……、このコロナ禍もすぐに終わるでしょ……)
 
 巴も思っていた、世間が思っていたこととは裏腹に、数日前に緊急事態宣言が発令され彼女自身、世間も再び絶望の海に沈みかけていた。
 『……分からん』
 角田が発す言葉は、巴にとって想定していた通りだった。
 「そうですか……」
 『ごめんな。こんな状況で新年度が始まって』
 角田がクラスに言い聞かせるように言う。
 「……大丈夫です」
 そう言い、巴はそっと口を閉ざす。まるで、絶望して口を閉ざすかのように。
 『なら良いが。――よし、これで朝のホームルームは以上とする。それでは各自、オンライン授業に取り組めるよう準備してくれ』
 そう命令するような口調で担任が言うと、次々とビデオ会議から退出する人が増える。その流れに沿うかのように、巴もまた画面左上にある退出という文字をタップしてビデオ会議から退出した。
 (はぁ……。彼氏とも最近会っていないし、クラスメートとも会っていないし……。これからどうなるんだろ)
 心の内で溜息交じりに思いながら、オンライン授業の準備をしていく。
 一時限目は数学だ。
 机の棚から数学の教科書とノートを取り出し、端末の前に置き、学校用鞄からペンケースを取り出してノートの横に置く。
 ふとした瞬間、巴の目線が学校用鞄になる。
 「……一年しか使ってないなぁ」
 部屋に溶け込むような独り言を呟くと、巴は一年しか経っていない学校用鞄を手に持つ。今は教科書など入っていないので重くはないが、重かった頃――つまり高一の頃を脳裏にふと浮かべる。
 「……あの頃のみんな、元気なのかな」
 何の考えも無しに天井を見上げていると、携帯のアラーム音が鳴る。
 「あ、時間だ」
 巴は端末を操作し、コロナ禍で急遽作成されたと言われる学校内のサイトを開き、そこから高校二年、二年四組、木曜日の順でサイトを開いていく。全校生徒がこのサイトを利用しているからか、なかなか開けないことに苛々しつつも、何とかして木曜の時間割が記載されたページに辿り着く。
 そしてそこから、一限の数学Ⅱというところに入っていく。すると、本当に学校の教師が作ったのかと否めない程、文字がキラキラとしていて見にくくなっていた。
 (何このページ……。どうにかして……)
 半分呆れながらも、彼女は事前に用意されていたリンクをタップする。すると、次のウィンドウに移って動画が再生された。今日やる内容は三次式の展開という。
 「いつ使うんだろ……」
 そんな愚痴をこぼしながら巴は背筋を伸ばして授業を受ける。
 (一方的な授業だけど、感染しないよりはマシだよね。きっと)
 そう安心しながら巴は授業を受けた。
 
 一限の終わりを告げる携帯のアラームが鳴ると、巴は背もたれに寄りかかって伸びをする。背筋の骨がポキポキと鳴った。
 「誰からだろ」
 彼女がそう言いながら携帯を見ると、舞子から新着のメッセージが届いていた。
 『ねね、ちょっと教えて欲しいところがあるんだけど』
 『どこどこ?』と、巴は素早いフリック入力をして送る。すぐに既読がつき、三秒後ぐらいに返信がきた。
 『数学のことなんだけどね』と、写真と共に送られてきた。
 綺麗な文字で綴られたノートの問題を巴は見た後、またフリック入力をして返信を送った。
 『ああ、その問題ね。私のクラス、そこやってあるから見せようか?』
 『良いの? 良かったぁ』
 巴は幾分かノートを捲り、該当するページを携帯で撮り、それを舞子に送る。
 『ありがと~‼ 今度奢るね』
 巴は微笑みながら了解の意味合いを込めたスタンプを送り、携帯を閉じた。すると、携帯のアラームがまた鳴り、今度は二限の開始を表した。
 巴は机の前に座り、端末を操作する。一つ前のページに戻り、二限と書かれた項目に世界史と書かれたところをタップする。そして、今度も授業動画なのか、リンクが貼られていた。
 (数学のページとは違って、こっちの方が見やすいなぁ)
 そんなことを思いながら、巴はリンク先をタップして授業動画を再生する。古代メソポタミアの話ということだった。
 巴の学校は三コースがあり、それぞれ進学、特別進学、国際の三つで、その中の進学が、巴が通うコースだった。その三コースとも同じ動画が流れます、という動画内の身長が低く眼鏡を掛けた可愛らしい男の先生がそう話すと、巴は「あぁ、そうなんだ」という気持ちになりながら、引き続き授業に集中した。
 黒板の書く音が若干耳障りだったが、それでもノートに必死に書き起こす。
 そして動画が終わったのか、画面が暗くなり、同時におすすめの動画が表示される。
 「……あれ、まだ授業時間に空きがある」
 側に置いていた携帯の時刻を一瞥した後、視線を端末に戻す。
 「どうしよ……。時間、まだ少しだけあるから、暇つぶしに何か見ようかな」
 そう呟きながら、指が端末に近づいていった。しかし、天使が巴の脳内に照らし出し、指が端末に触れるか触れないかの寸前で止まる。
 「……あっぶな」
 すぅという溜息をしつつ、動画サイトを閉じて一限の終わりと同じような動作をする。次の授業は国語だった。
 国語はビデオ会議を使った授業らしく、休み時間中に下のリンクから入って下さい、という説明書きと共にリンクが貼られていた。
 (……まだ時間になってないけど、別に入っても良いよね)
 大した悪気も感じなく、巴はビデオ会議のリンクをタップする。すると、現在のブラウザーから離れ、専用のアプリが起動し、少し読み込みがかかってパスワードの入力欄が表示される。
 (ああ、そうだった。パスワードがいるんだった)
 巴はさっきのブラウザーに戻りながら、あるニュースを頭の中に思い浮かべた。
 そのニュースとは、ある企業がビデオ会議システムを利用してリモート会議をしていたところ、何者かが突如乱入し資料が赤く落書きされ、更には卑猥な文字や差別用語が書かれ、挙げ句の果てにはアダルト動画を流せという文章が緊急地震速報の音声と共に現れる、そう言った情報が今朝のメディアで報じられていた。
 「あれが私たちの授業でやられたら、騒ぎどころじゃないよ」
 少し怒りの感情を込めた独り言を呟きながら、パスワードを入れる。すると、待機画面に切り替わる。少し待つと、許可されたのか黒板が画面に表示される。
 「『出席確認のみカメラオン。それ以外はカメラオフ』……」
 画質が粗く読みにくくなってる黒板の文字を辛うじて読み取り、「ふーん」程度で頭の中に入れておく。国語の教科書とノートを机の棚から取り出し、端末の前に置く。
 すると、側にある携帯のアラームが鳴り出す。
 (あ、やっと二限が終わった……。こういうこと、たまにあるから勘弁して欲しいなぁ……)
 そう思いながら、携帯を手に取ってSNSでリサーチをしていると、画面上部に通知が表示された。舞子からだった。
 多分教えて欲しいとかそんな感じのメッセージなんだろうな、そう思ってメッセージアプリを開く。だけど、それは巴が思っていたメッセージではなかった。
 『ごめん。言い忘れたことがあったんだけど……、コロナ罹った』
 その短く簡潔にまとめられた文が、巴の目線を歪ませた。
 
 
 
 『大丈夫?』と巴はフリック入力をして送る。
 『うん。私の場合、持病も無いから軽症で済んでる』
 『そうなんだ。でもさ、気をつけてよ? だって、急に症状が悪化することもあるらしいし』
 『うん。分かってる。じゃあ、授業頑張ってね』
 巴は頑張る! という意味合いを込めたスタンプを送り、机の隅に置いて三限が始まるのを待つ。
 数分が経つと、『これから授業を始めるので、全員カメラをオンにしてくださーい』という女性教師の声が反響する。同時に、皆がカメラを次々とオンにしていき、その流れに沿って巴もカメラをオンにする。
 (みんな……。個性的な顔だな……)
 皆がそれぞれに思っていそうなことを巴もそのように思っていると、『確認が取れたのでカメラオフにしていいです。ああ、あと、授業中はマイクオフにしてね』とやさしめな口調を先生が発すると、続々と皆の顔が見えなくなっていく。また、同じような流れに沿って、巴もカメラをオフにした。
 『それじゃあ、授業を始めたいと思います。教科書……』
 その途中、映像が止まる。音声が流れ続けているのに、映像が止まったままという不思議な現象に陥った。
 だけど先生はそれに気づく素振りも見せず、淡々と授業を進めていく。この不具合を報告しようと思う人がいないのか、それとも遠慮がちになって言いづらくなっているのか、どちらとも読み取れる状況によって先生の授業は更に加速していき、ついには黒板を書く音まで聞こえてきてしまった。
 「……誰も言わないの?」
 巴は困った様子で画面を見続けていると、誰かが『先生』と呼ぶ。
 『授業中は静かに……』
 『映像が途切れてます』
 先生の言葉を遮って女ような男の高い声が通る。すると、『ちょっと待ってね』とだけ言い残し、ドアを開ける音がした。
 一、二分後経つと廊下を走る音が微かに聞こえると、映像が復活する。すると、そこに映し出されたのはさっきの教師と、補助の役割を果たしていると思われる肌が少し黒い男の教師がいた。
 『ごめんねー。さっきどこまで進んだんだっけ?』
 と女性が言うと、ある生徒がさっきの内容を話した。
 『ああ、そこねー。じゃあ、先に黒板の方に書くからそれを書き写してー』
 単調に女性が言うと、黒板にチョークがカンカンという無機質な音が端末から響く。
 それを、巴はノートに書き写した。側に置いた携帯からある通知音を聞きながら。
 
 
 
 携帯のアラーム音が五限の終わりを表すと、巴は背もたれに寄りかかりながらアラームを止める。
 「あ、そうだ。帰りのホームルームがあるから参加しなくちゃ」
 巴は独り言を呟きながら、端末を操作してビデオ会議に入る。
 「……まだ時間があるから携帯でも見てよ」
 巴は側に置いてある携帯を手に取ると、ある通知が来ていることに気がつく。
 (……彼氏からだ)
 雅からの新着メッセージをタップして、メッセージアプリに画面が切り替わる。そのメッセージにはこう書かれていた。
 『今日の夕方、駅前に来れる?』
 (何があったんだろ……。とりあえず、行ってみるか)
 『来れるけど、どうかしたの?』
 少し時間が経ち、返信が来る。
 『うん。ちょっとね』
 『そうなんだ。そう言えば』
 『ん?』
 『舞子、感染したらしい』
 『え?』
 『ほんとほんと。今日の昼頃に本人から連絡があって、コロナに罹ったんだって』
 『症状はどうなの? 大丈夫なの?』
 『本人は軽症で済んでいるみたいだから大丈夫みたい』
 『そうなんだ。でもさ』
 『ん?』
 『舞子ってどこから拾ってきたのかな』
 巴は少し考えて返信を送る。
 『確か、舞子のお父さんって普段から外にいることが多い職業らしいし、この時期も結構外にいることが多いみたい』
 『ということは、家で仕事が出来ない職業ってこと?』
 『そうみたい』そう送った後、担任の始める声が画面から聞こえ『じゃあまた後で』と送って携帯を側に置いた。
 『……のホームルームを始めるので、まだ参加出来ていない人がいたらできる限り呼びかけてくれー』
 「……と言っても今の段階で呼びかけることが出来るの、ほぼ限られた人でしかないけどね」
 ミュートの利点を上手く活用して巴が呟くと、『よーし、帰りのホームルームを始めるぞ』と担任が言い出す。
 『それじゃあ、早速出席を確認していく』
 そう言い、担任が画面をタップしている様子を何となく巴は見る。少しの間待っていると、出席確認が終わったのか担任が近づけていた顔を離す。
 『連絡も特にすることはないので、もう退出して良いぞ』
 そう言った瞬間、ビデオ会議から退出する人数が増える。巴もビデオ会議から退出をし、長時間使った端末を充電する。長時間のオンライン授業から拘束が解けた巴は、白いタンスを開けてそこから軽めの服を取り出し、着る。
 (こんなもんで良いかな)
 上は春物らしいクレリックシャツ、下はプレーリースカート、そして髪型はポニーテールという格好で巴はドアを開ける。
 「どこに行くの?」と麻由美。
 「うん。ちょっとね」
 「気をつけなさいよ。どこで感染するか分からないんだから」
 そう言い、麻由美はマスク姿の巴に言う。
 「うん。気をつける」と言いながら、巴はドアを開けて外界に出た。
 いつ振りか分からない外界。気づけばもう四月となっている月日で、本来なら真新しい制服を着た児童・生徒、そして真新しいスーツを着込んだ新社会人がワイワイとしている頃合い。しかし、騒ぐことのできないコロナ禍では、そう言う風景が一切見当たらず、巴の自宅前、そして駅前は閑散としていた。
 巴はその光景を見て、あるニュースを思い返していた。
 そのニュースとは、症状が出る数日前からウイルスを拡散させるという、世間を震撼させる研究をあるメディアが報じたことにより、また、東京都の小池都知事や厚労省の呼びかけによって、普段人口密度が高い東京でも異常な静けさが誇っているとして一時期話題になった、というものだった。
 巴は〝機械仕掛けの太陽〟によって閑散とした駅前を歩きながら、雅の姿を探す。普段の、コロナ禍が始まる前の駅前は観光客やサラリーマンなどで人が沢山いた。そのためか、周辺の商業施設にもよく人が出入りしていたものだった。
 しかし、コロナ禍という突然の出来事に駅前の雰囲気は変わってしまった。
 これまでの活気溢れた駅前はどこか消え、残ったのはただ建物としての役割を果たしている駅、そして商業施設だった。その施設も、新型コロナウイルスの拡大防止のためという理由で臨時休業を余儀なくされていた。
 「あ、いた」
 巴が目的の人物を見つけ、走って駆け寄る。
 だが、彼に気づかれるか気づかれないぐらいのあと一歩のところで、彼女は止まる。
 (雅って……、こんな姿だったんだっけ……)
 コロナ禍前に出会った雅とは違い、どこか窶(やつ)れて、髪も目が隠れる程伸びきっていた。マスクのせいもあってか、柵に寄りかかる雅は不審者に見え別人に変わっていた。
 「雅くん……?」
 巴がどこか物思いに耽っている雅を呼びかけると、目だけ雅は動かす。
 「……雅くん、だよね?」
 恐る恐る巴が近づきながら言うと、彼は「うん」と頷く。
 「ごめん。こんな姿で」と雅。
 「ううん。大丈夫。――ところでさ、なんでこんなところに呼び出したの?」
 巴が疑問を示すと、雅は少し時間をおいてから話し出した。
 「……僕の家族が、全員コロナに罹った」
 「……え?」
 思わぬ発言に巴は驚きの声を出す。
 「驚くのも無理はないよな。僕の家族、僕を除いて今年の三月に旅行に行ったんだ。最初は僕も反対したんだけど、家族が言うことを聞いてくれなくて……。せっかく予約したんだから仕方ないだとか、コロナなんか風邪だなんて言い張って……。僕の近所に陰謀論者みたいな人が住んでいるんだけどさ、その人に感化されちゃったのかなって思いながら、家族が旅行に出かけるのを見送っちゃった」
 「……え、そ、そんなの、ダメに決まってるじゃん」
 「そう。ダメに決まってる。それなのに。それなのに、僕の家族ときたら……、勝手にコロナは風邪だとか言って平気で旅行に行って、それで感染して帰ってくるんだよ……? どうにかしてるだろ」
 雅が苛立ちながら髪を掻き乱す。
 「うん。雅が言っていること、正しいよ。そんな家族、どうにかしてるよ」
 「……そうだな、どうにかしてる。だけど」
 そう言うと、雅は巴を敵意に満ちた目線で見る。
 「それでも家族なんだよ! 僕を大切に育ててくれた。陰謀論者に吹き込まれて頭がおかしくなっても、それでも家族なんだよ!」
 涙を流しながら叫ぶ雅を見て、巴は何も答えずただ唇を噛み締める。
 「……なあ」
 「ん?」
 巴が首を傾げた瞬間、雅は巴を吸い込むように身体を抱く。柔らかな感触が雅に伝わる。
 「……え」
 戸惑いの声か怒りの声か分からない、そんな声を巴は出す。雅は巴の耳にこう囁いた。
 「ごめん。本当にごめん。僕だってこんなことをしたくない。僕以外の家族が感染して、僕ももしかしたら感染しているかもしれないのに」
 「……感染」
 巴はその言葉を聞き返す。
 雅は一度巴を身体から離し、マスクを通じて口づけをする。
 その瞬間、何かが二人の間を冷たいものが通る。
 巴は雅の行動に対し、酷く腹が立ち、拳をつくる。
 「……ごめん」
 雅が顔を離すと、巴が「……信じられない」と小さく呟く。
 「え」と雅がマスク姿でも分かるように、口をあんぐりと空ける。
 「ごめん」
 雅は咄嗟に謝ったが、巴は雅の頬を叩く。
 「信じられない‼ このご時世のこと、ちゃんと理解しているんだよね⁉」
 巴は雅に怒号を浴びせる。
 「……理解してるよ」
 「なんて?」
 蚊の鳴くような声で雅が言うと、巴は聞き返す。
 「だから、分かっているからマスクしてんだろ‼」
 誰もいない駅前で彼の怒声が反響すると、巴の手首を掴んで近くの柱にぶつける。
 「そもそも、俺がこんな風になったのは全部あのウイルスのせいなんだ‼ 家族もあんな風になったのも、そのせいで僕がこんな醜い姿になったのも‼」
 雅は巴の手首を押しつける度に力を強めると、彼女は「う、うぅぅぅ……」と抵抗しながらひ弱な声を出す。
 少し経って雅の力が弱まると、巴が「知らないわよ……」と微かに声を出す。
 「あ?」
 そう言った瞬間、巴は雅の身体を蹴り飛ばし、アスファルトの地面に叩き付ける。
 「知らないわよそんなこと‼ なんでそんなことを私にぶつけるわけ⁉ なんでみんなが密かに頑張っているのに、どうしてそんなことが言えるわけ⁉」
 怒りで一気に顔を紅潮させた巴は一旦息を吸い、再び話し続ける。
 「大体、なんで私をこんなところに呼び出すの? なんで? なんで? まだコロナ禍は始まったばっかりなんだよ? ねぇ、どうして?」
 涙声も含まれた怒声で巴が言うと、ヨレヨレながら雅が立ち上がる。顔がまだ紅潮していた。
 「知らねぇよ‼ 僕だってまだコロナ禍が始まったばっかりなのに、どうして会いたくなったのか分かんねえし、どう答えたら良いのか分かんねえよ……。コロナに罹った家族がいて、僕も罹っているかもしれないのに、どうして……」
 途中で咳き込む雅に、巴は少しビクッとさせる。もしかしたら、もう症状が出ているかもしれない、そう思って。
 「大丈夫……?」
 巴が心配そうに彼を見つめる。
 「……だ、大丈夫。僕、実は喘息の持病があるんだけど」
 「え? 何それ、初耳なんだけど」
 「ごめんな。言えなくて。たかが喘息だから他人に迷惑は掛けないと思って、ずっと言ってなかったんだ」
 「……それ、早く言えば良いじゃん」
 「ごめん」
 「それにさ、持病を持つ人は死亡リスクが高いって言われているからさ、早めに病院に行きなよ」
 受診を勧める巴に対し、「良いよ」と雅が断る。
 「なんで?」
 「……だって、もう手遅れだから。見て分かるだろ? 僕のこの姿」
 言われた通り、巴は彼の見窄らしい姿を見る。髪は目が隠れるほど伸びきり、顎髭が伸び、そして窶れた姿。
 (確かに手遅れだと思う。だけど……)
 「だけど。だけど、まだ手遅れじゃないよ。きっと、きっと病院に行って貰えれば治せるよ」
 「あんな状態でか?」
 「うっ」
 巴は想定していた反論なのに上手く言葉を思いつかず、ただ唇を噛み締める。
 〝あんな状態〟とは、医療が逼迫していたこと。コロナ禍が始まって以来、ニュースでは引っ切りなしにコロナの話題、緊迫する医療現場が盛んに報じられたことであった。
 「醜くなってしまった、哀れな僕なんてもう社会なんか必要とされねぇよ……」
 絶望に満ちた台詞を言うと、巴は「こんのっ!」と頬を叩く。
 「……」
 「もう……、知らないっ‼」
 巴は踵を返して駅前から去る。その姿を、悲しく雅は見ていた。
 咳き込みながら。手に付いた血を見ながら。
 そして。
 悲しみの目で大股で去る巴を見て。
 
 彼は顔を伏せてむせび泣いた。
 

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